08 明日から彼女を作る場合のシミュレーション
少年は家に帰り、食卓に乗っている皿を見て深いため息をついた。
例のちょっとした家族ごっこの生んだ副産物。母の手料理の登場だ。
過去に散々拒否した家庭の味。一生懸命作ったのよというセリフとともに差し出される「おふくろの味」は、想が世界で一番不愉快に思っているモノだ。
チンして食べてねという走り書きのメモが添えられたそれをどうすべきか、少年は一瞬悩んだものの、結論はすぐに出て、財布とともに再び外へ。
コンビニで適当な弁当を選んで店員に差し出し支払いを済ませるまでの短い間に、想はまたため息をついていた。
小学校の低学年の頃は今日のように、毎日母の作った食事が用意されていた。必ず全部食べるという約束をさせられていた少年は、食事をするのが嫌いになっていた。
母親の料理が下手だったからだ。
栄養があって、愛情も入っている。息子のために早起きをし、慣れない料理に奮闘する。それを評価しろと母は息子に毎日迫った。しかし、マズイものはマズイ。薄暗い家の中で一人美味しくもない手料理を食べさせられるなんて耐えられたもんじゃなくて、結局毎日母の努力はゴミ箱に投げ捨てられていった。
――あれがいけなかったのかな。
財布から小銭を取り出し店員に渡しながら、少年はぼんやりと考える。
最後に母が皿を思いっきり床に投げ捨て、料理を作らなくなったのはいつの日だったか。
あれ以来休みの日でも食卓にのぼるのはどこかで買ってきた惣菜や弁当ばかりで、少年の血肉を作っているのは主に謎の成分がズラズラとかかれたシールが貼ってある、どこかの工場で作られたものばかりだ。
どこかの誰かがもしかしたら愛情をこめて詰めたかもしれない工場直送の弁当をぶら下げ、想は夜道を歩いた。
マンションのエントランスのあかりが見える道の途中で、ふっと足が止まる。
道路の向かいに立つ、ボロい木造のアパート。築四十年は過ぎているであろう、エスポワール東録戸。薄暗い照明が照らすその建物が目に入ったからだ。
―― 一〇三号室って言ってたっけ。
ドアを叩こうとして手を挙げた瞬間、扉が開いた。
「うお、ビックリした」
「諌山想。願いか質問ができたのか?」
「……まあ、そうかな」
四谷はなにも言わないままドアを開けて、少年を中へ通した。靴を脱げばすぐに台所と狭いダイニングのスペースで、その奥には焼けて色あせた畳だけしかない、四畳半の部屋がある。
「なんにもないけど?」
「必要ないからだ」
部屋は完全に空き部屋の状態だった。隅にカバンが置かれ、玄関に想が履いてきたものともう一足の靴があるくらいで、寒々しさを感じる程のなにもなさに、さすがに驚かされてしまう。
「マジで? 家が他にあるとかじゃなくて?」
勝手に押入れを開けてみても、ない。布団も着替えも入っていないし、机もない。
「お前、どうやって寝んの?」
「われわれに睡眠は必要ない」
――本当にこいつ、人間じゃないのかな。
四谷という名のクラスメイトは多分、ただ単にちょっと変わっているだけなのだろうと想は思っているのだが、心の片隅に少しだけ、彼の言葉はすべて真実なのではという気持ちも同居している。
「お前、飯は?」
「われわれに食事は必要ない」
「なにも飲まない?」
「なにも飲まない。これは仮の体であり、死んだ肉体なので食事や睡眠は必要ない」
「へえ。……俺、ここで飯食ってもいい?」
「もちろんだ」
電子レンジのない四谷の部屋に、失敗したかなという気持ちになりつつ、想は畳の上に腰を下ろした。
「今すぐテーブル用意してくれって言ったら叶うのか?」
「われわれは単純な命令は受けない」
「心からテーブルが欲しいなあ」
想が適当な口調で言ったセリフに返答はなかった。仕方なく、手で弁当箱を持ったまま食事を進めていく。
ご飯を口に放り込みながら、少年はときどき黒の超幸運に質問をぶつけた。
「お前の体っていつか腐るの?」
「借りている一年間は腐らないようにしている」
「そりゃそうだ。普通に腐っていってたらバカだもんな」
四谷はくすりともせず、大真面目な顔でまっすぐ想を見つめている。
「あんまりじっと見ないでもらえる?」
「了承した」
少しだけ視線を逸らしたクラスメイトに、想はふっと笑った。
「お前の願いを叶えよう、とはならないんだな」
「契約者を常に前から見つめ続けなくてはならないというルールはないからだ」
「あー、なるほど。……じゃあ、契約者をいちいちフルネームで呼ぶなんてルールはあるわけ?」
「その通りだ。基本的に契約者には正式な名で呼びかけ、意思の確認をするようになっている」
――すげえ長い名前のヤツはめんどくさいな。
そんな落語があったな、と思い出しながら少年はさらに質問を重ねていく。
「明日っから彼女が欲しいって言ったら、出来る?」
「可能だ。しかし、諌山想の理想の女性とは少し違うタイプが相手になってしまう」
「理想の女性ねえ。じゃあすっげえ美人と付き合う場合は?」
「美人というだけでいいのなら、二日後に可能だ」
――こんなやる気のない高校生といきなり付き合っちゃう美人……、絶対ヤバいな。
「美人で性格もよくて、俺と最高に相性のいい彼女ってなるとどのくらい?」
「既婚女性でよいのなら三年と二ヶ月、未婚女性がいいのなら六年八ヶ月かかる」
「へえ……」
長いような短いような期間の提示に、想は首を傾げた。
「お前、適当に言ってるだけじゃないよな?」
「信じられないのなら先ほどの『彼女が欲しい』という願いを試してみればいい。明日には叶う」
「それってどんな女かはまったくの指定なしの場合だろ? どう考えてもとんでもないことになるじゃないか」
「……そうとは限らないぞ」
――嘘くせえ!
四谷の言葉に、想は力いっぱい顔をしかめてみせる。
やる気もなく、見た目がいいわけでもなく、友人もいない。どんな科目でも活躍することのないこんな自分に好意を寄せる女子がいるとはとても思えない。
「もしかして慰めようとしてるとか」
「われわれは契約者には常に真実を話す」
「信じられないね」
――なにかの間違いで付き合うことになって、どうせ次の日フラれるとかだな。
罰ゲームでイケてない誰かに告白、なんて流れだったら、本当に最低な経験になるだろうと想は笑う。
「それは残念だ」
特に残念そうでもない顔で四谷がそう言ったところで、コンビニ弁当は空になった。
一緒に買ってきたお茶を喉に流し込んでいると、ふっとこんな考えが浮かんでくる。
――彼女が欲しいという願いを叶えてみれば、だって?
チラリと目の前の青白い顔を見ても、相変わらずの無表情だ。
――オススメしてきたのは初めてだな。
「願いの提案はしない、とか言ってなかったっけ?」
「彼女が欲しいといった場合のシミュレーションをしたからだ。一度シミュレーションをしており、その結果に変化がない場合の願いならば言及が可能になる」
「その結果に変化がない場合ってどういう意味?」
「願いのシミュレーションを聞いた場合、それを聞いたという事実により運命の流れは変わる。たとえば明日が過ぎれば、今日と同じ『明日から彼女が欲しい』という願いを叶える場合、今日願った場合にできるのとは違う女性が『彼女』になる」
「つまり、今日彼女が欲しいって言ったらAが、明後日以降に言ったらBがってことか」
「その通りだ」
「ふうん」
ふうん、と答えたものの、自分に彼女ができるという想像が少年にはできないでいた。
高校生らしい健全な肉体の持ち主ではあったが、そもそも誰かと深く付き合うなんて面倒くさいだけだろうと少年は考えており、相手の機嫌を伺ったり記念日にはプレゼントを用意したりなんて、想像ですらごめんだと思っている。
そういう邪魔くさい要素がなければ、男女のあれこれはもっと楽だろうに……、と無責任な男子高校生は考え、別のパターンについても超幸運に尋ねた。
「じゃあさ、俺が好き放題しても許されるハーレムとかは? 作れる?」
「もちろんだ。その願いを叶える場合、最短で一ヶ月で可能だ」
「できるのかよ。すげえな超幸運! 絶対ヤバイだろその即席酒池肉林は。その最悪のハーレムの内訳はどうなるんだ?」
「町外れの廃工場に、若い男を好む麻薬中毒の女が住み着く。そこに更に前科のある女が二人、暴力夫に追われた女が一人、計四人、平均年齢三十五歳のハーレムが出来上がる」
「なんだよ三十五って、ははは。そんで好き放題ヤレるわけ? どうせひどい目にあうんだろ?」
「三種類の性病をうつされる。更にはうわさを聞きつけた他の男子学生が入り込んできて諌山想は二週間で追い出された上、自分の仕業ではないのに子供の父親だと主張されて慰謝料などを請求され、学校にも知られて退学処分にされる」
「ははははは!」
想の笑い声が終わって、部屋に静寂が訪れると四谷は大真面目な顔で口を開いた。
「叶えるのか?」
「んなわけねえだろっ」
もうそろそろ諌山家に両親が帰ってくるであろう時間になっている。
少年はコンビニの袋に空の弁当箱を入れて口をきゅっとしめると四谷の部屋を出て、ゴミの集積場にそれをぽいと投げ捨てると向かいの自分の家に戻った。