56 アゲイン 2
ぐだぐだと疲れた様子の弟たちの手を引いて、保育園から出る。
「だっこー」
「そー、だっこー」
「俺も疲れてるから無理」
容赦ない兄の断りは予想できていたのか、二歳児たちはしぶしぶ、黙って歩き始めている。
すると、まだ熱さの残るアスファルトの道を進む三兄弟の背中にこんな声がかかった。
「諌山さーん!」
振り返ると、グリーンのエプロンをつけた保育園の職員らしき女性が手を振っている。
「忘れ物でもしたか?」
兄からの質問に双子はまったく同じタイミングで、首をちょこんと右に傾げた。
「間に合ったよ、ほら!」
職員の女性が手を大きく振り、後ろからもう一人、同じようなエプロン姿の誰かが駆けてくる。
ちんたらちんたら、運動神経の悪そうな走り方で、ようやく近づいてきたと思ったら、聞こえてきた呼び声は。
「そーちゃーん!」
――うおっ!?
その呼び方、声、そして近づいてくる地味な顔。
すべてに覚えがある女。
「そーちゃーん!」
「かりんー」
「かりんー!」
その正体は、双子が呼んだ通り。
二年ぶりに姿を現した果林は息を切らせ、汗だくの笑顔で想に向かって封筒を差し出してきた。
「これ……、そーちゃんに……」
「ああ」
あっけに取られる青年の足を掴んだまま、弟たちはキャッキャと喜んでいる。
「かりんー、あそぼー!」
「ごめんねえ、あのね、まだお仕事の途中なんだあ。だから、また明日ね」
二人の頭を撫で、ついでに背伸びして想の頭まで撫でると、果林は身を翻して再び走っていった。
それを追いかけることはできず、二人を連れて帰宅して、片付け、食事、風呂と、次から次へと用事を済ませ、午後十時になって想はようやく渡された封筒を開いていた。
ピンク色の封筒にはキラキラのハート型シールがべたべたと貼られ、へたくそな字で「想ちゃんへ」と書かれている。
中にはキャラクターのイラスト入りこども商品券が五千円分と、手紙が入っていた。
――なんだなんだ。
突然現れた果林にも戸惑ったが、手紙にも相当、青年は戸惑った。
想ちゃんへ
想ちゃん、赤ちゃんのたんじょうおめでとう。
しょうちゃんもりょうちゃんも、想ちゃんにそっくしでとてもかわいいです。
できたらかりんが2人のママになりたかったけど
いまからママにはなれないとおもうので、
あきらめてお呪いしたいとおもってお手がみをかきました。
アシュレーといつまでもラブラブでいてね。
☆かりん☆より
手紙にはおそらくこう書かれていた。
丸くて汚い字を解読するのに三十分もかかってひどく疲れたし、内容がわかった結果、想の眉間の皺はこれまでにないほど深く寄っている。
薄いグリーンのエプロンの下には、相変わらずピンク色の服を着ていた。
髪は黒く、短く整えられていて、メイクも以前よりもずっと地味になっていた。
自分の部屋を出て、想は両親が揃ってくつろぎ中のリビングへ向かった。
「想、コーヒー飲む?」
「うん」
笑顔で立ち上がる母とともに、想もキッチンへついていく。
「なあ」
「なあに?」
「あそこの保育園で働いてる、森永果林ってわかる?」
「森永? ああ、かりん先生ね」
――かりん先生!
この答えは衝撃で、想は不覚にもぶうっと母に向けて吹き出してしまった。
「わあっ!」
「ごめん」
急いでテイッシュを取って、ツバのミストを浴びせてしまった母へと渡す。
「どうしたのよ」
「いや、……昔の知り合いっつーか、あそこで働いてるなんて思いもしなかったから」
「知り合いだったの?」
返答をどうしようか迷った挙句、想は結局こう答えた。
「コンビニでバイトしてた、彼女かって疑ってたヤツだよ」
「……ああ、あの子だったの? あらそう。……そういえば確かに、初めて会った時に名前を確認された気がするかな。お父さんの名前はなんですかーって」
――うん?
お父さんの名前は「功」だ。
――あーでも、聞き間違えるとか、いかにもやりそう。
三人で会話の弾まないコーヒータイムを済ませ、再び部屋へと戻る。そして、もう一度手紙に目を通し、想は笑った。
――呪うなよな。
一週間後再び弟たちのお迎えを任され、その時になんとか約束を取り付け、三日後の日曜日。
想はファミリーレストランの窓際の席で、果林と向かいあって座っていた。
「えへへ。ひさしぶりだね、そーちゃん」
「ああ」
「でもでも、これって不倫になっちゃうんじゃない? 妻も子供もいる人とお昼ご飯一緒に食べるなんてー! そーちゃんがいいなら、かりんはまあ、いいんだけど。あ、いや、ちょっと困るかなあ?」
「そこら辺の誤解を解いておこうと思ってな」
道端でうっかり再会しただけならまだしも、弟達の通う保育園の先生となると、おかしな噂を流される前にしっかりと真実を話しておきたかった。
それ以外にも気になることはあるが、とにかく一番大きな問題をまず最初に解決しておかなければならない。
かりん先生は首をかしげて、うーんと小さく唸っている。
「ゴカイ? 保育園は、四階にあるけど」
「相変わらずだな、お前」
「お前じゃないよー、かりんだよお」
キャッキャとはしゃぐ果林と呆れる想の前に水が並べられていく。
満員になったレストランの入り口には順番待ちの客が並び始めていて、ウェイトレスたちが忙しそうにかけまわっている。
「最初に言っておくけど、あいつらは俺の弟だからな。子供じゃなくて」
「ほえ?」
「弟だ。俺の母親が生んだの」
「えー? そうなの? えーっ?」
なにが納得いかないのか、果林は頭を大きくかしげている。
「じゃあ、いつもお迎えに来てるのは誰なの?」
「誰って、母親だよ。俺と、あいつらの」
「あいつらって?」
「……彰と遼の」
「そうなのかあ。お母さんにしては随分、年が上だなあって思ってたんだけど」
「悪かったな」
あまりにも正直な保育士の本音が飛び出してきて、青年は思わず苦笑した。
しかし、果林の攻撃はまだ続く。
「お母さんとそーちゃんの子供?」
これはさすがに気持ちの悪い発想で、反応は厳しいものになってしまう。
「バカ、俺の父親と母親の子供だよ。なに考えてんだ。いくらなんでもバカすぎ!」
「ひどーい。そこまで言わなくていいと思うけど」
――お前の発想の方がひどいぜ。
やれやれと顔をしかめる想をほったらかしたまま、果林は食べたいものが決まったのか店員に声をかけている。
「そーちゃんはなににする?」
「ん? ああ、そうだな」
あんまりな会話のせいで頭が働かず、青年は目に入った「本日のランチセット」を頼んだ。
向かいに座る果林は相変わらずの少し気の抜けた笑顔で、気になったあれこれについて質問をしていく。
「今、保育士やってんの?」
「うん。あ、ちょっと違う。資格がまだないんだあ。だから、今はお手伝いのアルバイトなんだよ」
「……そうか」
「かりんは中学までしか行ってないから、保育士になれないんだって。だからね、今、コーソツニンテー試験っていうの受けようとしてるんだあ」
果林のキャラクターにあまりにも似合わない単語が飛び出てきて、いつもは三角形の想の目が丸くなる。
「それと、保育園でのジツムっていうのが何年かあれば、保育士になれちゃうんだよ」
「へえ」
果林の言葉が真実かどうか、知識のない想にはわからなかった。
しかし、目標をもって努力しているのは確からしい。
「勉強しちゃってんのね」
「うん。でも、難しくって。かりんは数学とか全然わかんないよ」
「苦手そうだ」
「あと、歴史と理科と、英語も苦手なの」
――多分国語も苦手だよな。
「お前、手紙に『呪う』って書いてたぞ」
「えっ、なあに?」
「『祝う』って書きたかったのはわかった」
「あれれ。もしかして、なにか間違ってた?」
「ひどかったぜ」
――真実がひとっつもなかったもんな。
「どこがひどかったかなあ」
「全部だな」
頬を膨らませた果林と想の前に、ランチセットのサラダが運ばれてきて置かれる。
早速フォークをとってそれをつつきながら、保育士見習いのかりん先生はこう呟いた。
「アシュレーは元気?」
「……あいつはもういない」
「なんで? あれれ、そうか。遼ちゃんと彰ちゃんは、アシュレーがママじゃないのかあ」
「なんでそう思ったのか、俺としてはそこが一番不思議なんだけどな」
ふっと口元に笑みを浮かべつつ、想もフォークをとってサラダを食べた。
ペラペラの野菜に、酸味の効いたドレッシングが絡んでいる。
お店自慢のヘルシーサラダらしいが、あまり美味しくはない。
「あのねえ、想ちゃんのおうちのおばちゃんがいるでしょ?」
「おばちゃん……って、誰のことだ?」
母親を指しているわけではない気がしてこう質問すると、案の定こんな答えが返ってきた。
「頭が真っ白で、いつもお掃除してて、すっごい早口の」
「ああ、管理人のおばちゃんか」
情報を収集し、更には独自の解釈を含めて周囲に拡散するコミュニケーションお化け、福山モトコ。
過去にほとんど交流がなかったが、弟たちを連れている時には必ずといっていいほど話しかけきて、そのあまりにも一方的なマシンガンクエスチョンズに青年は辟易する日々を過ごしている。
「アルバイトに行こうとしたらね、おばちゃんに話しかけられたんだ。そーちゃんと付き合ってるの? って。それでねえ、そーちゃんはかりんの王子様なんですっていったら、わかったって。で、そ-ちゃん家に赤ちゃんが生まれるんだよって教えてくれたの」
――……わからん!
「それでね、かりんは、そーちゃんとアシュレーが結婚するんだなあって思ったの。アシュレーはいなくなるのをやめて、そーちゃんの赤ちゃんのママになるんだなって。すごくすごくうらやましくって、だけど、そーちゃんはアシュレーが大好きなんだから、かりんはもうジャマしたらダメなんだなって思ったの」
それはいつの話なのか。
きっと、二年前の夏休みになる少し前なんだろう。
それ以外に思い当たるタイミングはない。
「それで、あの時引っ越したのか?」
「うん」
――くだらねえな。
もっともっと深刻な理由があるのではないかと心配していたのがバカらしくなって、想はくくっと、口を拳骨で押さえて笑った。