44 ゴールデン・ハニー・トラップ
「ごめん、アシュレイ。俺今日はもう帰るわ」
やけになって重ねた唇を離した後、想はこう切り出した。
膝の上に乗ったアシュレイは、不安そうな表情を作ってしばらく黙った後、こう呟いた。
「ゴメン、想……いきなりこんなの、イヤだったね」
――うう
「イヤってことではないんだ。その、ちょっと、急ぎの用があるのを思い出して」
アシュレイが何者なのか、今はそれが問題だった。
白の超幸運がなにをしているのか、なにが真実でなにが嘘なのか。
もしかしたら彼女が普通の女子高校生で、自分を慕ってくれている可能性がほんの僅かでもあるならば……。
その疑惑を晴らせるのはただ一人、エスポワール東録戸で待つ「黒の超幸運」だけだ。
――なんか変なこと言ってるって思ったのに。
追求しておけばよかったという後悔が、少年の胸で渦巻いている。
「他の誰かが自分よりも諌山想を幸せにする」というあの変態じみた発言は、てっきり「可愛いあの子との恋愛」に対してのものだと思っていた。
「白の超幸運」が待ち受けていると知っていたから出た言葉だったのではないか。
新たな超幸運と契約を結ぶという未来を知っていたからの発言だったのではないだろうか。
とにかく、思いもよらぬ二重契約になってしまった。
今の状況は不自然極まりない。白に聞くより、アシュレイの様子をうかがうより、もうすっかりお馴染みの存在になっている「黒の超幸運」に聞くのが一番いい。
現状、誰よりも信頼の置ける相手は彼なのだから。
「ねえ、想」
眉間に皺を寄せる少年の耳に、甘い声が囁く。
――落ち着け、こいつの正体はまだ、わからないんだから。
白の超幸運の「肯定も否定もできない」はやはり、答えになっていない。
――でも、生きている人間だとも言った。
超幸運は、嘘をつくことができるのか?
「ゴメンね。ワタシ、想のコト、好きになっちゃったから」
心ではまったく信用しないとか、疑え、とか。負の思考ばかりが渦巻いている。
そのはずなのに、うるんだ碧い瞳の威力は半端なかった。
切なさに胸がしめつけられて、きゅうんきゅうんと鳴り続けている。
「あー……」
「ゴメンなさい。想」
ついでに物理的にもぎゅうっとされて、再び、血が沸騰し始めた。白の超幸運がすぐそばにいる。四谷に会いに行かなくては。今こうして抱きついてきているアシュレイは、何者なのかわからない。なのに!
「好き」
白い肌が頬に、愛の言葉と柔らかい唇が想の耳に触れる。
――これが嘘だって?
もし、アシュレイが普通の女の子だったら?
柔らかくて暖かくて、可愛くってスタイルも良くって。
好き、だって。
心の底に冷えた川はまだ流れている。しかし頭上からは、太陽の日差しが燦々と降り注いでいる。
その優しいぬくもりの魅力は抗いがたいもので、思わず、少年は手を伸ばした。細いアシュレイの体を抱き寄せて、その髪に触れる。
――泣いてる
頬に熱い涙が触れていた。
――死体が動いてるって?
そんな馬鹿な。
心の奥底にいた自分の魂が叫ぶ。目の前にあるものを信じろ。自分の目で見て、手で触れた初めての恋に、溺れちまえよと。
「……俺も好きだ」
言葉にして、ハッキリと心の形が決まる。
可愛いから、見ているだけでも嬉しい気分になった魅惑のハーフ美少女転校生。
この一ヶ月あまりの日々のうちに、いつの間にか嵌っていた、恋の罠。
しばらくぎゅっと抱き合っていた体がゆっくりと離れていく。
涙の跡をつけた、麗しい美しい顔が、想の前に現れる。
見つめ合う。
そして、微笑む。
「想」
――綺麗だ。
「Congratulations!」
「ん?」
――ドッキリだったか?
突然の祝辞に、一気に目が醒める。こんな美少女が自分を……。そんな自信のなさが蘇って陥る不安。
気分は真っ暗、かと思いきや、少年は一面の金色に包まれていた。
「おめでとう、諌山想。当選のお知らせだよ! すごいすごい! 一日で二つ目、人類初のトリプル契約達成! 信じられなーい!」
「……ふざけんなっ!」
「ふざけてなんかいない。すごいよ、人類初の快挙だね!」
あまりの悔しさに拳を握り締める想の周りを、アシュレイがキャッキャと飛び回る。
――わかってたのに!
なにをまんまとしてやられてんだよ! とひたすら、自分の不甲斐なさを叫ぶ。
「契約の説明はもういいかな? 解除の方法は、他の二つと一緒だよ。呼んだらいつでも来るし、私は他のと違ってケチくさい条件はないの。なんでも叶えるからね。お金が欲しかったら、いくらでもあげる。偉くなりたいんだったら、いくらでも偉くしてあげる!」
「うるせえ」
「キスしたかったらいつでもしていいよ」
「さっさとここから出せ!」
「了承しました~」
キンキラの輝く空間から一瞬で出て、元通りのアシュレイの部屋に戻る。勿論、少年の膝の上には魅惑の美少女が乗ったまま。
「うふふ」
たまらなく嬉しそうな笑顔を浮かべた金の超幸運は、なにを思ったのか再び、想にキスをしてきた。
――クソっ!
それを突き飛ばし、鉄の意思で立ち上がる。
「いたーい! ナニするの、想!」
「うるせえ! 人をおちょくりやがって!」
「好きなのに?」
――まさか……
「お前のキーワードって」
怒りで声を震わせる少年に、金の超幸運はにっこり笑って答えを教えた。
「『俺も好きだ』、だよ。想」
「わざと言わせやがったな!」
「わざと? 想は悩んでたでしょ、これは罠かもしれないって。でも結局、信じるって判断したんじゃない。言わせたりなんてしてないよ」
相変わらずの愛らしい顔でニコニコと話すアシュレイに、怒りと悲しみが募る。
ついでに、情けなさと不甲斐なさと、ついでに自分の間抜けさに対するガッカリ感も。
どうしようもなくいたたまれなくなって、カバンを掴むと少年は部屋を飛び出した。
「諌山想、緊急事態だ」
ボロアパートの一〇三号室の扉は、想がドアノブに手をかける前に勝手に開いた。
「俺もだよ!」
「申し訳ないが付き合ってもらっていいだろうか?」
「どこに」
「話し合いの会場にだ。今日、白と金の超幸運と交わされた契約には問題がある。契約者である諌山想にも同席してもらいたい」
「あそこか? あの、青いところ?」
「その通りだ」
それに返事をする間もなく、周囲が一気に青く染まった。
二月十七日にも来た、真っ青な空間。
そこに、四谷と、ミスター・ウィリアムズ、アシュレイが立っている。
「諌山想、少し待って欲しい」
澄ました顔で待っているウィリアムズ親子を軽く睨み、四谷の穏やかな声に頷く。
憤懣やるかたない少年の肩を、青白い手が優しく叩いた。
「なに待ちしてんの?」
「中立の立場の者に議長をしてもらう必要がある。今、緑が来る」
――まだ増えんのかよ。
「大丈夫だよ。契約はさすがにしないから!」
「お前は黙ってろ!」
あっけらかんとした顔のアシュレイに、怒鳴る。それをまた、四谷の冷たい手が諌めた。
「諌山想、落ち着け。この異常事態は解消される」
「本当に?」
「私を信じろ」
胡桃色の瞳が力強く少年を射抜く。珍しくそれに燃える物を感じて、想も思わず頷いた。
「わかった……」
「なんだよー、黒は、第二段階だからってー」
「金、誰のせいでこうなったと思っている? 口を慎め」
「つつしみませーん!」
「こら!」
この怒声をあげたのは、黒人の少女だった。
いつの間に現れたのか、アシュレイの隣に立っている。
「あれ? なんで赤が来るの?」
「五つのうち四つが召集されているこの事態に、何故一つだけ呼ばれないのだ」
どうやら不本意だったらしく、赤の超幸運らしい少女はプリプリと怒っている。それを金がケラケラと笑い、頭のてっぺんを拳でグリグリとしている。
「やめないか、金」
「来た来た」
もう一人、濃い顔立ちの壮年の男が現れた。おそらく緑の超幸運なのだろう。中東かアジアにいそうな顔立ちの、恰幅のいい紳士といった様子だ。
「黒からの問題提起があり、この事態は明らかに異常だと判断した。指名を受けたので私、緑の超幸運が進行を務める。立会人は赤の超幸運、当事者は、白、黒、金、そしてその契約者である、諌山想」
想のすぐ隣に黒が、左側に白、右側に金が立つ。向かい合うように、赤と緑の超幸運が並んだ。
司会進行役の緑が、まず確認をする。
「三重契約になったのだな、諌山想」
「……そうみたいだな」
「これまでの歴史で、二つ以上の超幸運と同時に契約をしたものはいなかった。それが一日で、三重になるとは」
「白と金は明らかに、私の契約者である諌山想を狙って日本を訪れ、キーワードを口にする状況に彼を陥れた」
四谷の言葉に、白は動かず、金は口笛を吹き始めた。それをジロリと睨んだ緑がこう宣言し、会議は始まる。
「了承した。それでは、白と金の超幸運、それぞれに、事情を聞くとしよう」