42 天国と地獄 2
まだ十七年に満たない短い人生の中で、後悔したことは沢山あった。
後から悔いるから。事前に予見できないから「後悔」と呼ばれるのであり。
――当然すぎて、すげえ染みる……。
脱力感の中、想が思ったのはただ一つ、これだけだった。
後悔は先に立たない。
この世の当然すぎるその真理に、苦笑いするばかりだ。
「ただいま、パパ!」
――パパ?
授業が終わり、放課後。アシュレイの軽やかな声と並んで歩き、やってきたウィリアムズ家。
「おかえり、アシュレイ」
「想よ」
簡潔に紹介され、少年は慌てて頭を下げた。
グレーがかった茶色の髪と瞳。ネクタイのない、黒いスーツ姿の男が彼女の「パパ」らしい。
背が高く、体格のいい中年紳士といった様子のアシュレイの父は、厳しい顔で突然やってきた客を見つめている。
「こっちよ。来て」
その視線に戸惑いながら、手を引かれてアシュレイの部屋へと移動する。
諌山家とさほど変わらない、いわゆる日本的な作りのマンションの短い廊下を慌てて進む。
そしてとうとう、想は「年頃の女性の部屋に初めて入る」という経験を果たした。
ポップでキュートでキラキラしたアメリカンな部屋を想像していたのに、そういった要素は皆無で、想のシンプル極まりない自室とあまり変わらない。
それにどこかほっとするような、ガッカリするような。
気持ちはそわそわと落ち着かないが、用事があって来たのだから、向き合わなければいけない。
「インターネットだよな」
「Yes」
自分の中でまだヘラヘラと笑う下心に呆れながら、机の上に置かれたノートパソコンの前に座る。
「Wi-Fiとか使える?」
「よくわからない。想、見て」
白い手がスッと伸びてきて、電源のボタンを押す。
パラダイスだった。
小さな一人がけの椅子のはずが、二人座っている。
パソコンに向かって想が座り、横にアシュレイが立っていたはずなのに。
いつの間にやら狭い座面の端に美少女が無理矢理座ってきて、おかげでひざとひざがぶつかりあい、キーを叩いているうちに。
何故か、少年の腿の上にアシュレイの足が乗っている。
「想、わかる?」
「……ううん」
それは「違う」という意味の返事などではなくて、どーしたもんかなこいつは、という唸り声だった。
足が乗ってきたら、お次は長い腕が首に絡み付いてきて、おまけに顔のすぐ横に顔が来ている。
金色の髪は窓から入った光で輝き、見つめてなんかいないのに視界の端でチラチラチラチラ、主張が止まらない。
体中のあちこちを柔らかい刺激が襲ってきて、かつてない感覚に想は悶えた。
手を、足を、胸を、頭を巡る血管という血管の中で、血が沸騰していた。
鼻めがけて香ってくる甘い匂いも、滑らかそうな白い肌も、体が触れている部分の暖かさも、すべてが敵。
少年の理性に味方するのは、居間にいるであろう「お父さん」くらいだ。
いや、彼は強大な味方ではあるがしかし、ひょっとしたら見てないかもしれないよね、という曖昧さも併せ持っている。
おかげで理性はもう敗北寸前。準備は既に完了して、白旗が今にも上がってしまいそうだ。
――やべえ
「想」
耳元にふうっとかかる息のせいで思わず、変な声が出そうになってしまう。
「ねえ」
振り向けば終わりだ。
パソコンの画面に表示されている、面白みゼロのデフォルトの壁紙が最後の砦。
「私のこと、好き?」
――あーダメだ
その一言で、砦は陥落。これでもかという勢いで白旗が上がった。
アシュレイが用意したのはよほど威力のある爆弾だったらしく、砦はレンガのかけら一つ残っていない。
丸出しになった裸の王様は、潔くスピーディに投降するしかない。
首が勝手にぐるっと回って、すべての感覚が、目の前の瞳に吸い込まれていく。
――ドッキリとかさ。
――それでもいいって思えるのがすげえ。
――うまくできるかな。
――もしかして、子供と孫が同い年とか?
――ホント、笑える。
想は一瞬でこの十倍くらいのあれこれについて色々考えたが、そのすべてが青い輝きの前には無意味だった。
うるうるとした輝きに見とれていたら、次の瞬間、少年の視界からすべての光が消えて。
ただただ、唇と唇が重なっているその小さな触覚に意識を集中していた。
ぎゅうっと抱きついてきているアシュレイのどの辺りに手をやったらいいのか、両手の行き先に散々迷っている間に、唇は離れていってしまう。
その離れた顔を、うっとりと想は見つめた。
非の打ち所がない、美しいアシュレイ。
輝く瞳には、今までに見たことのない表情の自分が映っている。
「想」
こんな気持ちは、初めてだった。
「うん」
アシュレイの長い腕は、まだ少年の首にまわされたまま。ついでに、膝の上に乗ったままだ。重たくなどない。ただ、幸せなだけ。
そんな姿勢でニコッと微笑まれたら。
――もーダメだあー
思いっきり腰の辺りを引き寄せ、今度は自分から唇を重ねた。
我慢ができない。心臓の音以外、なにも聞こえない。
――これで我慢とか無理すぎるだろ!
意を決して、唇を離す。目の前には、少し恥ずかしそうに頬を染めたアシュレイがいる。
――俺、今、どんな顔してるだろ。
さっき見てしまった、彼女の瞳に映った自分の表情。
ほわーんふわーんとした、だらしない顔だった。あれよりは、キリッと決めたい。
「ねえ、想、私のこと、好き?」
聞くまでもない。少年の全身から、無言の答えが噴き出している。
それでも、言葉にしなくてはならない。
誠実に答えようとした瞬間、悲劇は起きた。
「なにをしているのかね?」
ドアが開いて投げかけられたのは、流暢な日本語だった。
ミスター・ウィリアムズは部屋の入り口のドア枠ピッタリのサイズで、長方形にピッタリミッシリと収まっている。
ここから逃げ出す手段は、窓からダイブする以外に残されていない。
「……ええと」
アシュレイはチラリと父に一瞥をくれたきり、動かない。想の膝の上に乗り、首に手をまわしたままというこの修羅場には似つかわしくない姿勢を保っている。
そんな可愛い子猫ちゃんを突き放すことの出来ない少年は、この状況でどう答えるべきか、いいセリフがちっとも思いつかなかった。
結局出てきたのは、こんなしどろもどろ丸出しの台詞が二つ。
「あの……パソコンの、ネットの設定をですね」
「ふむ」
「しようと思っていたんですけど」
ずいっと、アシュレイの父が一歩前に出る。
硬く結ばれた唇、鋭い瞳、高い鷲のような鼻。黒いスーツに身を包んでいるが、中に隆々とした筋肉の塊があるのは隠せないらしく、ピチピチとした着こなしになっている。
もしかしたら、職業はボディーガードとかSPなのかもしれない。軍隊上がりです、みたいなオーラをムンムンとさせたミスター・ウィリアムズがまた一歩前に出る。娘とは、カケラも似ているところがない。
かつてない恐怖感だった。
あの大きな手で殴られたら、一日くらい目が覚めないかもしれない。いや、鼻と耳から血が吹き出して壁を真っ赤に染めたっきりこの世とお別れになるかもしれない。
――四谷! 助けてくれ!
やはりこれは自分のキャラクターに合った展開ではなかった。無欲で善良、だからこそ、超幸運に選ばれたはずだ。こんな都合のいい願いを、彼は叶えない。自分のためにいいのは、きっとここで可愛いあの子のお父さんに思いっきりドヤされて最悪救急車で運ばれて赤っ恥をかくとか、そういう未来だ。
そんな失敗をして、若者は成長するのだから。
身の程知らずな「恋」に身を焦がすなんて馬鹿な真似は、もうしなくなる。
先程までたぎっていたのが嘘のように冷え切った世界で、悲しい想像で溺れている想の前に、父が立つ。
「おめでとう。君は、選ばれた」
どこかで聞いた、そのセリフ。
祝福の声は部屋に満ちた緊張感の中に溶けていって、世界は突然、闇に包まれた。
闇というには、語弊があるかもしれない。
闇が暗いものだとしたら、それは闇ではなかった。
ひたすら白に塗りつぶされた空間に、二人。
見覚えのありすぎるこのシチュエーション。
ミスター・ウィリアムズと、諌山想。
向かい合って立っている。
「まさか……」
「当選を知らせよう。諌山想、今この瞬間、君に超幸運がもたらされた。おめでとう」
――嘘だろ?
少年の驚きに答える声はない。
ただ、目の前に立つ「白の超幸運」がギラリと、その瞳を輝かせただけだった。