41 天国と地獄 1
「ねえ、想って名前、ステキね」
昼休み、三人の高校生は二つくっつけた机を囲んでいる。
「漢字の意味、調べたの。オモウって漢字はもう一つあるけど、想の名前の字の方がステキだなって」
「なんだよ」
こんな会話が真ん前で繰り広げられて、仲島の表情は冴えない。ひきつった微笑みを浮かべたまま、親友と、親友に向かってハートをぶつけ続ける美少女を交互に見つめている。
最近毎日続いている、ビターすぎるランチタイム。たかり前提で自前の昼食を持って来ない二人が、ランチの提供者そっちのけでいちゃつくという修羅の時間だ。
――すまねえな仲島!
もちろん、果林について心にひっかかるものはある。
しかし。思春期真っ只中の健康な青少年にしてみれば、好みのど真ん中なハーフ金髪美少女が笑顔をふりまいてきたり、たまに胸の辺りに触れてきたりする刺激に勝てるものなど、なかなか存在しないわけで。
「諌山君、その、君はさあ……」
「なんだ?」
放課後の優雅な豪邸でのひと時。
ようやく親友と二人になれて、坊ちゃまはおそるおそる、口を開いた。
「ウィリアムズさんとお付き合いを始めたのかい?」
「……いや、別に」
「あんなにいつも、そのー、親しげじゃないか。朝もいつも一緒に来ているみたいだし?」
「近所なんだよ。たまたま会うだけ」
「それにしては随分親密そうに見えるのだけれど」
――うっぜー。
「違うって言ってんだろ? ただ単になれなれしいだけなんじゃねえの? 外国人だし」
「確かに習慣の違いはあるかもしれないけれど」
「なにが言いたいんだよ。お前もアイツ狙ってんの? 柿本はどうしたんだよ」
「いや、僕は全然、そんな、あのー……」
ツッコまれてしどろもどろになった仲島の様子に、少年はフフンと笑った。
「でも諌山君、嬉しそうだから」
「あんな可愛い子がいたら嬉しいのが自然だろうがよ」
「あう」
――でも確かに、ちょっと、ヘンかな。
アシュレイの「近さ」は一体なんなのだろう。
想は自分をたいしていい男ではないとわかっているし、アプローチした覚えもなかった。
アシュレイのあのキラキラ具合、寄ってくる男は山のようにいるだろう。そう思うからこそ、なんで自分みたいな地味極まりなく、やる気のない、パッと見た感じいいところが一つもないようなヤツに寄ってくるのか? 理由が見つからなくて、少年はこう呟いた。
「見た目だけならお前の方が上だよなあ」
「なんの話だい?」
「別に」
「あう」
仲島は無駄なしゃべりさえしなければ、それなりにいい男だといえた。
人が良さそうであり、立ち居振る舞いには品がある。最近ようやく気がついていたが、字が美しいし、いつでも姿勢がいい。
目つきが悪くて不愛想な諌山君よりは、そこそこ整った顔立ちの仲島の方が間違いなく世間一般の受けはいい。そんな結論を出して、想は窓の外、雲のない青空を見つめた。
――なんだろ、この違和感。
「諌山君、次の試験の時、彼女も連れてくるかい?」
「あん?」
声を潜めた、様子を窺うようなお坊ちゃまの腰の低さに、思わず笑ってしまう。
――それより、自分こそ柿本誘えばいいんじゃねえの?
ここでなるほどと閃いて、想はにやりと笑った。
「ああ、そうか。俺がアシュレイ誘えば、お前も柿本を誘いやすくなるってことだな? 人をダシにしようとは、汚ねえヤツだな、仲島!」
「そそそそそんなことはないよっ!」
「あははは」
「ひどいよ諌山君!」
真っ赤になってイヤイヤする坊ちゃまに容赦なく笑いがぶつけられたところで、この日の二人の交流は終わった。
長いリッチなリムジンで家まで走る間に、想の脳裏にまた、閃くものがあった。坊ちゃまとの会話の間に生まれた違和感の正体。
車が走り去るのを見送って、少年は超幸運の部屋を訪ねた。今日は果林がバイトに行っているのか、ドアに鍵はかかっていない。
「諌山想、質問か、願いの変更があるのだろうか?」
「ああ、質問しに来たぜ」
季節は春から初夏に変わり、コタツに掛けられていた布団はもう押入れにしまわれている。
以前チラリと見えたが、掃除機で空気を吸い込んで圧縮する袋にキチンと入れられていて、それはそれは笑える光景だった。
「アシュレイ・ウィリアムズについてだな」
「わかってるじゃん。あいつ、なんで俺に絡んでくるの? お前がそう仕組んでるわけ?」
アパートの前で会った時。なんともいえない雰囲気だった。少年はそう感じていた。
「私が今取り組んでいるのは諌山ルミの健康と安全、そして安産だ」
「俺を幸せにしたくてしょうがないのがほとばしっちゃって、あんな美少女あてがってるわけじゃねえの?」
「そのような対応はしていない」
「じゃあなんで? あいつ、なんか目的があるの?」
超幸運の目はいつも通り、どこか遠くを見ているような雰囲気だ。
胡桃色の瞳は長い睫毛の影に隠れて、輝きはなく、しかし鋭さを持って少年を見つめている。
「アシュレイ・ウィリアムズにとって、諌山想は気になって仕方がない存在だ」
「なんで?」
「それを私の口から言うのは憚られる」
それだけ言うと、四谷は珍しく少し下を向いた。
「なんだその反応は。気持ち悪いな」
「どうしても聞きたいと諌山想が希望するのならば話すが、わたしとしては勧められないことだと伝えておこう」
ではそれは不幸なこと、なのだろうか?
今までに「おすすめできない」と先に注意されたアレコレは、悲惨なものばかりだった。
――じゃあ今回は?
もしかしたら。
先に聞いたせいで、感じられる幸せが減るパターン……だとしたら。
――俺が気になってしょうがない、ね。
アシュレイの碧い瞳が、目を閉じた暗い視界の中に輝く。
あっという間に彼女の美しい姿がまぶたに浮かんで、想の頬はみるみる緩んでいく。
「幸せそうで結構だ」
冷たく言い放つ超幸運に、少年は妄想を切り上げて鋭くツッコミを入れた。
「お前……、俺を幸せにするのは自分だとか、そういうつまんないコト考えてる?」
「その通りだ。私よりも諌山想を幸せにする存在がいるとなれば、私は自分の存在意義を見失い、自信を失うだろう」
「あははははは!」
大真面目に「幸せにしたい」宣言をしてきた四谷に、少年は人生で一番大きく笑った。あまりにも笑いすぎて、最後にはむせて、散々咳き込んで呼吸困難に陥り、一瞬救急車を呼んでもらおうかと思った程にウケた。
「はぁ……、お前、俺を殺す気か?」
「そのような真似は絶対にしない」
「そこはボケねえんだな」
ようやく呼吸を整えなおすと、超幸運がさっとペットボトルのお茶を差し出してきて、そのあまりの気の利きようにまた笑う。
「やめてくれっ」
「喉を潤すものが必要だと思ったのだが」
またプルプルと震えだす腹を抱え、ひとしきり笑って、想はようやくお茶にありつくと心に落ち着きを取り戻した。
――これが正しい、超幸運ライフってやつなのかな。
顔に浮かぶニヤニヤを抑えられないまま過ごす自分の部屋。
黒で統一されたインテリアになんだかつまらなさを感じてしまう自分の浮かれっぷりに、苦笑してしまう。
――幸せで結構じゃないの。
まったくもって、四谷の言う通り。
長い間悩んでいた両親との関係は改善された。新しい家族の誕生も無事が約束されている。友人も、可愛いガールフレンドもできた。果林はまあ将来に期待するとして、今現在、不満などひとつもない日々を送っている。
かつて一日の終わりに抱いていた漠然とした不安は、季節とともに過ぎ去っていってしまったかのようだ。
少年のからっぽの魂はいつの間にか、美しい水で満たされていたらしい。
「Hi! 想、オハヨー!」
今日も家を出れば、金髪を朝日に煌かせた美少女の笑顔が待っている。
「ねえ、想は、パソコンに詳しい?」
可愛い大きな瞳が覗き込んできて。
こんなに美しいブルーに、無碍な返事をすることなどできないわけで。
「それなりに使えるけど」
「ワタシ、苦手なの。インターネットにつなぎたいんだけどわからなくって」
白い長い指が、少年の手に触れ、ゆっくりと絡みついてくる。
「学校終わったら、ウチに来て」
――マジで来たのかも。
やってきた予感がした。
「OK?」
「ああ、いいぜ」
「良かったあ」
にっこりと、アシュレイは笑う。
そして急に顔を下に向け、恥ずかしそうに、囁き声で少年の耳をくすぐった。
「あのネ、想は、私の初恋の人に似てるの。……だからかなあ、つい、頼っちゃうんだ」
――あー、マジで来てるわ、これは。
白い頬を赤く染めているその姿に感じる、かつてない胸のときめき。
自分の人生には決して訪れないであろうと思っていた。
永遠にないと思っていた。
そんなもんいるか、と心の外に投げ打っていた、アレ。
口にするのも憚られると思っていたその単語。
それが芽生えて振りまく、胸の内の暖かさ。
それに少し悶えながら、震えながら、ついでに少しばかりときめきながら、少年はその日の学校生活を過ごした。
いつもよりずっと長く感じる授業の時間。
そして放課後。
諌山想の人生で最も長い一日の始まりが、すぐそこに来ていた。