40 森永果林の王子様攻略戦
胸の中の果林は、しばらくシクシクと悲しげにすすり泣いていた。
それを冷たく突き放す薄情さも、どうしたんだいと優しく抱きしめる愛情もなくて、想はただひたすら困惑し、正面に座っている四谷の表情のない顔を見つめている。
――どーにかしてくれよ。
最近すっかり便利になっていたはずの超幸運からの返事はない。静かに目を伏せ、形の良い唇も閉じたままだ。
仕方なく、少年は天井を見つめた。
古めかしい電気のかさと、年季の入った木目としばらくにらみ合っていたら、果林が唐突に動いた。
顔は下に向けたまま、腕を伸ばして、愛しの王子様にしがみついてくる。果林の右の頬が想の右の頬にぴったりとくっつき、こぼれた涙が目尻を濡らす。
「そおちゃん……」
「なんだよ」
「かりんよりも、あの子の方が好きなの?」
――うむむ
冷静に考えてみれば、その通り。果林について、どうとも思っていない。よくわかんないけど好き好き言ってくれてサンキューくらいの存在で、今現在ポイント急上昇中の隣の席のあの子と、まず「比べる」という発想ができない。
ただ、アシュレイが好きなのかと言われると、それもまだ、おそらく違う。彼女はただ、ひたすらに可愛いだけの存在だ。過剰なスキンシップが、果林のそれよりもだいぶ嬉しいという違いはあるが。
「……別に、そういうわけじゃないけど」
「ホント?」
しがみついたまま、果林が囁く。それでようやく、くっついていた頬が離れていった。
「じゃあ、いつ結婚式する?」
――ええー?
「いつの間にそんなことになった?」
「今だけど」
心の中を、風が吹き抜けていった。かなり強い風だ。春一番なんかあまっちょろく感じるレベルの、いや、風ではない。ビルでも倒しそうな勢いのハリケーンが。
「だってね、エントルメを見つけたらその人と結婚するんだよって、サッチが言ったの。だからかりんは、そーちゃんと結婚するんだよ。あの、アソレーよりもかりんがいいんだよね?」
「あー……」
ハリケーンの一部を口から大量に吐き出してみる。が、心にはまだまだ暴風が吹き荒れていた。
――多分、エントルメはジェントルマンで、アソレーはアシュレイなんだよな。
「ジェントルマンだって思ったのはいいんだけどよ、即結婚て。単純にも程があるだろ」
「だってサッチが言ったの。いい男を見つけたら、絶対逃がしちゃダメだって。いい人がいたらむしろ絶対エッチして、怪奇現象を起こさないとダメだって!」
『諌山想、怪奇現象ではなく、既成事実だ』
頭に響いた声に、不覚にも少年は吹き出した。それをかなり自己流に、ポジティブなものに受け取ったらしく、果林が微笑む。
「だからね、そーちゃん。明日はバイトだから、明後日結婚しよ」
「そもそも俺はまだ結婚できねえし」
「どうして? 怪奇現象がまだだから?」
「いや、法律で男の結婚できる年齢は決まってんの。十六歳はまだ無理なんだぜ」
「えっ? どうして? じゃあ何歳ならいいの?」
本気でビックリの顔をする二十歳に、想は表情をキリリと引き締めてこう答えた。
「二十四だな」
「ええ? じゃあ、そーちゃんは今十七歳だから、あと九年もかかるの?」
「そうなるな」
「そんなに待てないよお」
ぽかぽかと胸を叩いて悔しがる果林に、想は笑いをこらえ切れない。
口を押さえて悶える王子様に、さすがの果林も気付いたようだ。
「あ、そーちゃん、もしかして嘘ついた?」
「ははは。大体、俺は十六だってさっき言ったよな。それに、十七でも二十四までは七年だぜ?」
「ばかばか! 嘘ついたらダメなんだよ! 嘘つきはキライ!」
「そいつは良かった。他の王子様、ちゃんと探せよ」
口の端から笑いを漏らしながら少年が立ち上がると、果林は動揺したのか、固まって動かなくなってしまった。
それをいいことに、想は二人に手をヒラヒラと振ると急いでエスポワール東録戸から脱出を果たしている。
――すげえなあ、あいつ。
家に戻ると、退職したばかりの母が待っていた。体調は絶好調になっており、最近ではマタニティナントカというエクササイズを習い始めたりしている。
「おかえり、想。なにかいいことでもあったの?」
「あん? いや、別にないけど……」
まだ少し緩んでいた顔に、慌てて力を入れる。しかし、果林の規格外のアホさ加減に少しだけ、笑いが漏れてしまった。
「珍しいわね、そんなに楽しそうなの」
「まあね」
その笑いは、部屋に戻って制服を脱いでいる間に収まっていった。
今までの二十年間の果林の人生は一体どんなものだったのだろう。
彼女にとっての「ジェントルマン」は、まだ現れていないわけで。
心の底から悲しい気分が湧き出して、想にため息を吐き出させている。
――俺のこと、全然知らねえのになあ。
たまたまコンビニで出会い、隣の四谷家に突撃してきた時にちょっと話しただけ。それでもう、自分を王子様として認定してきた果林。
――単純すぎ。
たいして優しくした覚えもない。むしろ、どちらかというと冷たくしてきたはずだ。
そして超幸運の、あの言葉。
『明日用意できる他の王子様では、森永果林に非常に不幸な運命をもたらす』
あの時、すぐに納得した。そうだろうなと。誰かが下心を隠して、適当な優しい言葉さえかけてしまえば彼女はさっさと「王子様」についていってしまう。そんな無防備さがあると、もうわかっている。
――だからってなあ……。
では自分が王子様になんて気持ちには到底、なれそうにない。
大体、果林とは「親愛」を育む間柄だ。
いや、それは本当に真実だろうか?
――それも、超幸運が言ったから、ってだけだよな。
自らが選択した道なわけではなく、そうなる予定らしい、というだけの話で。
ここまで考えて、少年の頭はグダグダの状態に陥った。
だから? なにを? どうすべきか?
果林をどうしたいのかと聞かれれば、別にどうしたいわけでもない。彼女が幸せになろうが、不幸になろうが関係ない、これが正直な気持ちだ。ただちょっと、目の前で不幸になられたら気分が悪いな、というだけで。
――すごくポジティブに考えてみたら……
自分の幸せは、周囲の幸福につながっているはずだ。超幸運の力は周りにも影響を及ぼす。
契約者は特別な行動をする必要はない。だから、自分の思うままに生きていけば、それでいいのではないか。
――都合が良すぎるよな。
しかしそれが超幸運と契約した人間にもたらされる最大のメリット。の、はずだ。
――わかんねえや。
結局、思考はぐちゃぐちゃと、まとまりないものになってしまった。考えれば考えるほど絡まる糸に、少年は大きめのため息をついて、ベッドの上に転がった。
夜が訪れ、想は飲み物を買いに行こうと外へ出た。
果林が働いているかもしれないから、途中にある自動販売機で買えばいい。そう思って外に出た少年を待っている影があった。
「そーちゃん」
「……よお」
マンションの入り口のすぐ横に、果林が立っていた。生暖かい春の夜の空気、暗い夜道の中にピンク色のパーカーが明かりを反射して輝いている。
「あのねえ、四谷君が教えてくれたの。ホントは、男の子は十八歳で結婚できるんでしょ?」
――あの野郎、余計なこと言いやがって……。
「なんで嘘ついたの?」
「いや、知ってると思ったから。信じるなんて意外だったぜ」
「……あふっ」
妙な反応に、想の眉間に皺が寄る。
「大体、十八になるのだってまだ先だし。その前にだな」
「あのねえ、かりんは、すごくバカなの」
結婚という結末にたどり着くまでに、必要な要素がどれだけあるか。それを少しだけ話そうと思っていた少年の言葉を、果林の寂しげな一言が遮った。
「それは知ってる」
「そうだよね。かりんは、全然ダメなの。難しいこと考えるの苦手だし、すごく得意なこともないんだ。だからね、サッチがいっぱい心配して、こうしたらいいよって教えてくれたの」
「サッチって誰なんだよ?」
「かりんの友達だよ。前のアパートの、お隣に住んでたの。かりんはパパと住んでたんだけど、いっつもいなかったから、サッチがかわりにいっぱい面倒みてくれたんだ」
友達と言いつつ、同年代の女性ではなさそうだ。
そんな風に考えている想に構わず、果林の言葉はまだ続く。
「あのねえ、サッチが言ってたんだ。この人だって思える、エントルメを探すんだよって。それで、結婚してもらいなさいって。かりんは誰か優しい人のお嫁さんになるのが一番幸せだと思うって」
「……で、俺?」
「うん。そーちゃんだけなんだよ。かりんを大事にしてくれるのって」
指を絡ませながら、下を向いたまま話す果林の姿に、再び心に切なさの波が打ち寄せてくる。
「そんなことねえよ。他にも絶対いるって。お前が気がついてないだけで」
「今まではいなかったよ。そーちゃんが初めてだもん」
「でもこれから、まだ出会うかもしれないじゃねえか。それにお前は俺のこと、どんな人間か知ってるのか? 俺はお前を、ちょっとアホなフリーターの姉ちゃんだって以外なにも知らねえよ」
果林がぱっと顔をあげて、赤くなった目で少年の顔をまっすぐに見つめる。
「フリーターって?」
「アルバイトして暮らしてる人」
「ああ」
すっかり地味になった顔を傾けて、果林は腕組みをしてなにか、考えているようだ。
ここまで来たら途中で、じゃあな、と放り出すことは出来ない。
これが超幸運に善良だのなんだの言われてる理由なのか考えながら、想は皺の寄った鼻の辺りをポリポリと掻いている。
「そーちゃんはね、エントルメで、高校生で、十六歳で、優しいの」
果林がようやく出した答えに、想はふうと息を吐く。
「それくらいだろ、知ってるの。それだけで結婚したいとか、どう考えても単純すぎるだろ」
「そっか。結婚の前に、婚約しないといけないんだっけ」
もちろん、じゃあ彼女にして! とか、じっくりお互いを知り合おうじゃないか、なんて結論を出されても困ったわけだが。それにしても本当にこいつは、という気分になって、少年はこの日何回目かわからないため息をついた。
「あれれ。婚約指輪って、すっごい高いんだよね。そーちゃん、買える?」
「婚約しねえし」
「なんで?」
「……今日はもう遅いから、この話はまた今度にしようぜ」
あまりにも面倒くさくて口走ってしまった言葉に、果林は満面の笑みで答えた。
「はあい!」
じゃあまたねー、とルンルンで家へ戻る姿を見送ると、脱力しすぎた少年は結局、飲み物は買わずに家へと帰った。