37 カウントダウンの始まり
少年が笑顔の権田と挨拶を交わすと、平凡な住宅街に似合わないリッチな長いリムジンは去って行った。
寒空の下、身を縮めてマンションのエントランスへと駆ける。家に帰ると、父の姿がもうあった。
いつもより帰宅を早めた理由は、息子が大事な学年末の試験を控えているからだったらしい。
勉強ははかどっているのかという問いに、まあねと返事があって、諌山家には穏やかな空気が満ちていく。
妻を労わる夫、子供のために耐える母、そして、孝行息子。
――なにそれ。
わずか四ヶ月ばかりで大きく変わってしまった諌山家の様相に、自室で一人、想は笑った。
初めてのお友達は超ゴージャスでリッチなボンボン。
なにもしてないのに、大好き大好きと慕ってくる年上のお姉さん。
――物は言いようだな。
部屋の暖房のスイッチを入れて、コートを脱いで。
頭に浮かぶのは超幸運の新しい姿だ。自分を幸福にしたいという、地球からの贈り物。
――そうは言ってもなあ。
無欲認定をされた通り、超幸運のやる気に反して少年に欲しいものはない。
今すぐ暖かい飲み物があれば嬉しいが、わざわざ向かいのアパートに出向いてお願いするほどのことでもなかった。
「想」
ノックに続いて母の声がした。勝手に開けて入ってくるかと思っていたが、しばらく待ってもその気配はない。
仕方なくドアを開けると、寒い廊下に母が微笑みを浮かべて立っていた。
「これ、コーヒー入れてきたのよ」
「……サンキュー」
「頑張ってね」
複雑な表情を浮かべている息子を残して、母は去って行く。パタパタと足音をさせて遠ざかる後姿を見ながら、想は考えた。
――まさかね。
「超幸運の粋なはからい」と考えるよりも、「最近出来上がってきた良好な親子関係」の副産物と思った方が自然だ。そう結論を出してしまった自分に顔をしかめると、少年はコーヒーを一口飲んで、小さくため息をついた。
どうして来てくれないの、とまとわりつく果林を適当にあしらい、毎日学校へ通う。時折登校時にそんな邪魔が入る以外には特にアクシデントのない日々を少年は過ごしていった。
快適な三回目の試験勉強生活はあっという間に終わり、試験の結果も上々。学校生活の前半に漂っていた留年の危機はどこへやら、意識を春休みにワープさせているのんきな高校生たちに混じって、想はのんびりとした気分で座っている。
「諌山君、春休みの予定は? バカンスはどこにするんだい」
――わかってて言ってるのかもしれないな、こいつは。
ノーマルな日本の高校生は春休みに、バカンスへは出かけない。三クボたちとつるんでいる間に充分わかっただろうに、わざわざ聞いてくるのはもしかして、ツッコミを待っているからなのかもしれない。
「別にどこも。お前はどこ行っちゃうの?」
「諌山君がパスポートを更新したんだったら、ぜひ一緒に行きたいなあ。ロスあたり、どうだい?」
「パスポートなんか持ってねえよ」
えっ、と驚く顔にフフンと笑う。
その笑いを冗談と受け取ったのか、お坊ちゃまは「いやだなあ、諌山君たら」なんて答えている。
「いや、マジで持ってねえし。海外なんか行ったことないぜ」
「一度もないってことかい?」
「一度もないってことだ」
ニヤリと笑ってみせると、仲島はぎこちない笑顔で応えた。
大親友のセリフが真実なのかどうか、判別がついていないようだ。
――行ったことあるのが普通なのか?
諌山家の場合、一人息子が小さな頃に数回だけ。行先はいずれも国内のメジャーな観光地で、これから先にはもうないかもしれない程度にレアなイベントだ。
――まあ、行っても持て余すばっかりだな。
試験が終わり、だらだらと弛んだ空気が満ちた教室。
三月も中旬に差し掛かる頃、窓の外には春の気配が訪れて、日差しはだいぶ暖かさを帯びてきていた。
朝は着ていたコートを手に持って自宅へと戻る想の前に、意外な人物が立ちはだかった。
「四谷」
マンションのエントランスの少し手前に、麗しい姿の超幸運が立っている。
「なにやってんの? 珍しいな、外にいるの。買い物?」
「諌山想を待っていた」
「へえ。なんか用?」
「無欲にも程があると思ってな」
小さく開いた唇から出てきたセリフに、少年はただただ困惑してしまう。
「意味がわかんねえんだけど」
「私は願いを叶えたい」
――えー?
「話したはずだ、諌山想。契約は第二段階へと進んだ。私は諌山想を幸せにしたい」
「ちょっと待て。まあ、とりあえず家に入ろうぜ。な?」
青白い手を取り、慌ててエスポワール東録戸へと向かう。鍵がかかっていなかった扉を開けて、妙に真剣な表情の超幸運を中へと押し込んだ。
「どうしたんだよお前は、いきなり」
「諌山想が願いを言わないので私は困っている」
それでいきなり、外であんなことを口走っちゃっているのか。
想は呆れてみせたが、超幸運の真剣な表情に変化は見られない。
「本気で言ってんの?」
「私は契約者に真実のみを述べる」
「ああ、そう」
――やる気出ちゃってんのかな。もしかしたら、かつてないレベルで。
「諌山想は契約のアップグレードの説明の日以来、私のもとを訪れなかった」
「そいつは済まなかったな」
急に浮気相手のようなセリフを言い出す超幸運に、戸惑ってしまう。
「そんなに願いを叶えたいとは知らなかった」
「勿論、諌山想に願いがないのなら仕方がない。しかし……」
「なによ。しかし、なに?」
四谷は口をつぐんで黙ってしまった。
――なんだ急に。ウザくねえ?
やる気の出し方が間違っているのではないか、と思いつつ、チラリと超幸運の様子を窺う。顔はいつも通りの無表情だが、内心はたぎっているのかもしれない。契約者をスーパーハッピーにしてやろう。そして世界は、幸福に包まれる――とか、なんとか。
「お前、矛盾してんじゃねえの? 今、お前のこと、ちょっとめんどくさいって思ってるぜ、俺は。これが幸せに繋がると思うか?」
「思わない。諌山想、すまなかった。今後は控えるようにする」
殊勝な物言いだが、内心をぶちまけてしまった後ではあまり意味がないのではないかと想は考える。
なにか簡単なお願いがないかと心の中を探って、とうとう一つ、長持ちしそうなナイスアイディアを発掘するのに成功した。
「俺の母親が安産になるとかどうよ。気分も良くなって、特にピンチもなく母子共に健康ってやつ」
「……了承した。諌山想、お前の願いを叶えよう。この願いは……」
「どうした?」
「兄弟の誕生日はお楽しみで伏せておいたほうがいいだろうか」
「じゃあそれで」
「了承した」
なんとなく不満げなオーラを感じて、超幸運の顔に視線を動かしていく。
無表情。いつもどおり、平常運転の様子だ。
「夏くらいだよな。それまで、並行して願いは叶えられない。そうだろ?」
「その通りだ。同時進行はできない」
「なんだよ。悔しそうじゃねえ?」
「そんなことはない」
――俺が来ないとヒマだとか?
以前は高校生として学校に潜り込んでいたので、一応半日分は日課があったはずだ。しかし今は日中になにをしているのか。想像もつかない。
「お前いつもなにしてんの。ずっと家にいるのか?」
「今現在はそうだ。諌山想の願いをいつでも叶えられるように、最速で動ける準備をしている」
「暇を持て余しちゃってる?」
「そんなことはない。新たな質問や、願いの変更があればいつでも私は聞き入れなくてはならない。また、用がなくともここを訪れ、話をしても問題ない」
――変える予定はないわな。
ただのさびしんぼうのようになってしまった黒の超幸運の姿に、想は少しだけ笑った。
「すげえな、第二段階って。どんだけやる気出るんだよ」
「第二段階に進んだ人間はまだほんの数人だ。特にここ最近ではいなかった」
「ちなみに通常の状態とだとどの程度差がでるわけ?」
四谷からの返事はなく、少年は首を傾げている。
――内緒なのか?
「知りたいなー、心から、知りたいなあ」
「最初に話した、これはできないという縛りがなくなる」
「あん?」
あっさりと口を割った四谷に、想は眉をひそめた。
しかも、「縛りがなくなる」とは。
「空を飛びたい、って言ったら叶えちゃうわけ?」
「そうだ」
「お前……、それはないだろう。いくらなんでも」
「もちろん、必要性がない場合には叶えられない。それが諌山想の幸福に繋がる場合のみ、叶えられる」
「じゃあアレは? 人の心の操作ってやつは?」
「それも可能になった」
あまりにもイージーに答えられて、想は思わず目を閉じていた。
眉間にぐっと力を入れて、大きな変化への戸惑いを解消しようと努力してみる。
そんな契約者に、超幸運はこんな「ただし」を提示していく。
「諌山想は善良な人間であり、例えば胸の大きな女性が急に服を脱いで誘惑してくるなどと言い出さないと信じているからこその限定解除だ」
「バカっ! お前、バカっ! こら!」
――ふざけやがって!
想は強く睨みつけたのに、超幸運は穏やかな表情で微笑んでいる。
「お前もしかして俺をからかったのか?」
「からかってなどいない。ただ、真実を述べたのみ」
――本当かよ?
しかし善良で無欲な少年はやはり、空を飛んでみたいとか、セクシーな美女とイチャイチャしたいという願いを口にすることなく。
少し怒ったような顔をしていたが、まっすぐに家へと帰っていった。