36 高校生の極めてノーマルな日常 4
「お帰り、寒かったでしょう?」
頭にちらちらと白い塊を乗せて帰宅した息子に、母が立ち上がる。
「結構降ってるものね」
「うん」
「どうしたの? 顔が赤いけど、風邪でもひいた?」
母の指摘に、顔がかあっと熱くなってしまって、想は慌てて自室へと戻った。
そして思う。
――なんなんだよ、善良ってよ。
超幸運の見せた笑顔。あんな顔をしてみせたのは初めてで、もちろん、新しい体に変わったから性格の設定も四谷(弟)とは少し違うとか、果林がいたのであそこは笑って見せたとかそういう理由があるのかもしれないが。
――買いかぶりだ。
大きく息を吐き出して、ついでに顔をしかめて。カッカと熱い自分にイライラしながら、濡れたコートを脱いでハンガーにかけた。
「ねえ、想、もうすぐ試験よね?」
なんとか気を取り直してリビングへ戻ってきた息子に、母からこんな声がかかった。
「ああ」
「前はお友達のところでお勉強してたんでしょう? 今回も行くの?」
どうしようか迷う息子に、優しい瞳が向けられる。
「お母さんのことはいいから、いってらっしゃい」
今が一番大事な時なんだから学業を優先させないと、というのが母の意見だった。
常識的、かつ良識的な意見はごもっともであり、いや、僕はお母さんの方が大切だから! なんていう主張のない少年は、ほっと息をついて顔に入っていた力を緩めていく。
いざという時には連絡をする約束をして、次の日、ランチタイムにボンボンへ「もうすぐ試験だな」と言えばそれだけで、三度目の快適な試験対策の日々が始まる。
と、思っていたのだが。
「かりんものーせーて!」
お坊ちゃまのお迎えの車は、校門の前に堂々と停めるわけにはいかないのか、いつも学校の裏手の道路で待っている。そこに何故か、更生を済ませた果林がニコニコと笑顔を浮かべて立っていた。
「あなたは? どなたですか?」
「諌山様の御友人だそうで」
仲島の言葉に、執事の権田が答えている。
坊ちゃまは親友を振り返って、眉間に皺を寄せている。
「諌山君はもしかして、僕が思っている以上にプレイボーイということなのかな」
――んなわけねえだろうがよ。
「ちょっと待っててくれ」
彼女ではない近所に住む若い女性が、自分を慕うあまり学校までお迎えに来ている、などという説明をしなければならないのだろうか。
頭が爆発してしまいそうな事態に悶えながら、果林の手を引いて車から離れていく。
「そーちゃん、あれ、あのテムジン、かりんも乗りたいの!」
「遊びに行くわけじゃねえから。勉強しなきゃなんねーんだよ、もうすぐ試験だし」
「じゃあかりんもお勉強しようかな」
――なんのだよ……。
想の眉間に深い深い皺が刻まれていく。
それを見ても特に思うことがないのか、果林は車がながーい! とはしゃいでいる。
「邪魔だよ。帰れ」
「……そーちゃんひどい!」
年齢よりもずっと幼いアクションで、果林はえーんえーんと泣き声を上げ始めてしまった。
――うぜえ!
「諌山君、どうしたんだい?」
「別に」
「別にって。レディを泣かせるなんて、紳士の振る舞いとはいえないよ」
坊ちゃまはジェントル魂が許さないのか、明らかに嘘くさい泣き方をしている果林に、優しげな笑顔を向けて話しかけている。
「あのね、かりんもあのながーい車に乗りたいの。そーちゃんと一緒にお勉強したいの」
「なるほど。あなたはかりんさんと言うんですね。諌山君とはその、特別な関係なのでしょうか」
「そーちゃんはかりんの王子様なんだよ。エントロピーなの。だから、髪型とかメイクもそーちゃんが好きな感じに変えたんだあ」
「エントロピー?」
その言葉がなにを意味しているのか、果林の口から出てきたのは二回目だが理解はできない。
ただ、その後に続いた「少年好みに変えた」という部分にお坊ちゃまは大きく反応してニヤニヤと笑った。
「行こうぜ仲島、そいつのことはいいから。おい、今日はバイトはないのかよ?」
「今日は夕方からなんだあ。そーちゃんと一緒にお散歩したかったから来たんだよ」
「俺は夜まで帰らないから、お前はさっさと帰りな」
容赦のない想の言葉に、果林はしゅんとうつむいて、両手の人差し指をツンツンさせて不満をアピールしている。
「じゃあ、かりんさん、お家まで送りましょう。それなら少しは諌山君といられるし、この車に乗ってみたいんでしょう? 短い時間ですけどそれでよかったらどうぞ」
「えーっ! ホントにいいの! 嬉しいっ」
こげ茶に生まれ変わった地味目の二十歳は、ハッピー全開でお坊ちゃまに抱き着いてしまう。
「ああああ」
仲島はニヤけた困り顔で視線を彷徨わせていたが、紳士の魂が勝ったのか、すぐに果林をこう制した。
「かりんさん、いけません」
「はあい」
ニコニコの果林が離れ、仲島はデレデレとし、想の表情は冷たい。
――楽しそうでいいね、君たちは。
「じゃあ行こうか、諌山君」
果林はいの一番に車に乗り込んで、もうおおはしゃぎをし始めている。
「お椅子がふっかふかーだよ、そーちゃん! でもでも、ミラーボールがないねえ」
「ミラーボール?」
「こういう長い車には、ミラーボールがついてるはずなのに」
「はは。そういう改造をしている人もいますよ。でも、少数派でしょうね」
「ワインが冷蔵庫に入ってるんだよね?」
「僕は未成年なので、ワインは積んでいません」
アホ丸出しの果林に対して、仲島は微笑を浮かべて紳士的な対応をしている。
その様子に育ちの良さを感じながら、想はぼんやりと窓の外を見つめた。
長くて立派な車は、狭い路地を通るのに向いていない。運転手はじっと黙ったまま、人通りの多い道を慎重に進んでいる。そして外から車内は見えない故に、周囲を歩く高校生たちはあからさまに長い車に興奮して、指をさして騒いでいる。
やがてリムジンはランプをチカチカと鳴らして、エスポワール東録戸の前に停まった。
「じゃあまたな」
「ぶー。そーちゃんともっと一緒にいたいのにー!」
「バイト頑張れよ」
「うん、がんばるー! そーちゃん遊びに来てね。夜にでも。四谷君と来て!」
先程までの不満はどこへやら、激励の言葉に喜んで果林は車から飛び降りていった。
ピカピカの笑顔でブンブン手を振る姿をスライドドアがゆっくりと隠していき、再びリムジンは走り出す。
「四谷君と来て、って?」
そして、当然の質問が仲島の口から飛び出してきた。
あのやろう余計なことをいいやがってと思いつつ、少年は答える。
「四谷には兄貴がいるんだよ」
「へえ、……そう、なんだ」
お坊ちゃまは不安そうな顔をして、おそるおそる親友にこう問いかけた。
「もしかして双子でそっくりだとか、そういうパターンかな?」
「ああ、いや、年はわからないけど、全然似てないぜ」
「そうなんだ」
安堵の表情を浮かべている仲島は、人種が違うとか、弟よりもずっと美形だなんてトンデモ設定があるなんて想像もしていないだろう。
微笑んでいた坊ちゃまは急にキリッとした表情を浮かべて、想にこう囁く。
「諌山君、お兄さんの件は柿本さんには内密に頼むよ」
「言うわけねえだろ」
――大体、話すのもイヤだし。
接触した時間はほんの少しなのに、柿本には鬱陶しい以外の印象がない。
「お前アイツのどこがいいの?」
「えっ! えーっ、どこがって、僕と柿本さんはそんな関係ではないのだよ諌山君!」
「そういうって、どういう関係?」
「僕と柿本さんは、同好の士なのだ」
――なのだ、ってなんだよ。
焦ったあまり出てきたのであろうおかしな語尾に、少年はぶうっと吹き出してしまう。
「同じ、コント好きの仲間なだけだよ! 貴重なんだよ、同じ笑いのセンスの持ち主というのは」
「わかったよ」
「柿本さんはクラッカアンドサイダーよりも、破壊神ディザイアーが好きらしいんだけどね?」
「知らねえし」
破壊神ディザイアーは、少しコアなネタがお笑い通に人気の芸歴十二年のトリオ芸人だという説明が、必要ないのに仲島の口から語られた。お笑いが絡むと途端にウザキングに退化してしまうらしいボンボンからの詳細な語りがあまりにもうざったくて、ついつい想はこんな意地悪をしてみたりする。
「家に誘って、二人で一緒にDVDとか見ちゃうのか? エロい奴だな、お前」
「なななななにを言ってるんだい! そんなことはしていないっ! 断じてエロくないっ!」
慌てる坊ちゃまがおかしかったのか、珍しく前の席で権田が笑い出していた。
「権田! なにを笑っているんだ!」
「申し訳ございません」
すぐに笑いをひっこめられるのは、さすがと言うべきだろうか。しかしこのやり取りはおかしかったらしく、車が家に到着し、想が降りる時に爺やはこう声をかけてきた。
「諌山様、ナイスツッコミでございました」
――じゃあ坊ちゃまがボケなのか?
やれやれと肩をすくめるお客様に、権田は微笑んでいる。
久しぶりの仲島家で少年はおおいに歓迎され、相変わらずの美味しいお料理とお菓子、家庭教師の先生と可愛いメイドさんの快適フルコースに満足して、家へと帰った。