35 契約がグレードアップされる条件について
雪の日のボロアパートはさすがの冷えこみで、コタツは暖まってきたものの、はみだした上半身はひたすら寒い。
「そこのヒーター動かしてくれ」
「了承した」
新しい四谷は容姿こそ違うが一昨日までと同じ無表情で、暖房器具のスイッチを入れた。
「家計はもういいの?」
「問題ない」
想はじっと、新しい超幸運の姿を見つめた。
顔の造形はまったく違う。
物憂げな瞳、明るい色の細い髪。いや、そもそも人種が違う。アジアからヨーロッパへ飛んでしまった。
しかしそこにいるのは間違いなく、四谷だった。
「不思議だな」
少年が呟くと、超幸運はほんの少しだけ笑った。
「嬉しいぞ諌山想。われわれの契約は本物だった。第二段階に進んだ甲斐があるというものだ」
「はあ?」
第二段階、という単語に記憶が呼び起こされていく。
『黒の超幸運は本契約中である人間、諌山想に関して、次の段階へ進むことを希望……』
大会議から抜け出るタイミングで聞いた、あのセリフ。
「そういえば言ってたな。次の段階って。説明してくれ」
今日のドリンクは、新発売の紅茶飲料だった。
飲み口から湯気をあげているホットのそれを買いに行った時に、コンビニの店長らしき男に微笑まれ、こう囁かれている。森永さんを更生させてくれてありがとう、と。
そんな回想はどうでもよくて、四谷の話に集中しなければならない。
「超幸運と契約した者はまず最初に、仮契約の状態となる」
「ああ」
「契約者が超幸運を真実であると認識し、信じた場合、本契約に進む可能性がある」
「絶対ってわけじゃないんだ」
「契約者が超幸運とともに人生を歩んでいくと決めた場合、本契約に進む」
――そんな誓いがあったっけ?
少年は思わず顔をしかめたが、超幸運は気にしない。
なので想も心のひっかかりはとりあえず流して、次の質問を投げかける。
「何段階目まであんの?」
「本契約になった者が、われわれ超幸運の定めた基準を満たした場合、第二段階へと進む」
「おい、スルーすんなよ。いきなりぼかしすぎ」
「残念だが本契約以降の基準や仕組みについて詳細を話すわけにはいかない」
「聞きたいなあ。心から基準や仕組みについて詳しく聞きたいなあ」
ぴくり、と四谷が動く。今までに見たことのない反応に、少年は目を大きく開いた。
「なに、教えてくれるの?」
「いや、話すことはできない」
――変な感じだ。
押せば話してくれそうな雰囲気だった。根拠はないがそう思えて、想は超幸運の顔をのぞいた。
顔色が青白いのは相変わらずだ。見れば見るほど美しい顔立ちに、妙な気分になってしまう。
「なんでこんな美形選んでんの? 目立つだろ」
「わたしも不思議に思っているのだが」
胡桃色の瞳で少年をまっすぐに見据えて、四谷はこう続けた。
「われわれが求める条件を満たす肉体は、一般に美しいとされる容姿の者が多い」
「……へえ」
誰からも探されず、孤独に人生を終える死者。
悲しい訳あり人生を歩んだその理由とは?
深い闇の気配しかなくて、想の背中は小さく震えた。
「男性の肉体の方が毎年やや少ないので、余計に選択肢が少なかった。これから一年、この体で過ごすのでよろしく頼む」
「ああ」
四谷の声は穏やかな響きで、落ち着きを取り戻して想は頷き、質問を続けた。
「で? 第二段階って具体的にはどう変わるわけ?」
「本契約になった時と同じで、諌山想が体感する変化はない。条件も願いの叶え方も今までと同じだ」
「じゃあお前に変化があるんだな? どういう変化?」
「契約者はそれを知る必要はない」
「またそれかよ。それでへえ、うん、わかったとか言うと思ってんのか? 教えろ」
これまでならば。
これまでなら、黙ったきり、澄ましたお顔で四谷はこの要望を無視していただろう。
ところが今日はまたピクリと揺れて、ゆっくりと形の良い唇を開き、小さな声でこう話した。
「われわれが契約者と過ごしていく時間の中で、契約者の願いをより多く叶え、その人生を豊かなものにしたいと願うこと。それを他の超幸運に認めてもらって許可が下りた場合、契約は第二段階へと進む」
「はい?」
――なんだそれは?
「お前、俺をもっと幸せにしてあげたいとか思ってんの?」
「その通りだ」
冷静な肯定に、想は思わず吹き出していた。挙句、激しくむせた。
咳がようやく収まって、あふれてきた涙を拭きながら顔をあげると、想の目の前には大真面目な表情の黒の超幸運が静かに座っている。
色々と聞きたいことはあったが、あまりにも意外な話に妙に照れくさくなって、言葉が出てこない。
想がなにも言わずにいると、四谷の口からこんな言葉が飛び出してきた。
「諌山想は無欲だ。かつて超幸運と契約した者のうち、五本の指に入るだろう」
そんなの知らねえよ、と想は顔をしかめている。
「われわれは願いを叶える。人々により多くの幸福を運ぶためだ。それがわれわれ超幸運の存在意義であり、希望であり、仕事だ。その成果は契約者の質に大きく左右される。この契約者であればと思うところがある場合にのみ、第二段階へのグレードアップがなされる」
「なにが言いたいんだかわかんねえんだけど」
「わたしは諌山想が大変善良な人間であり、その人間性の質を将来の長きにわたって変えないであろう、稀有な人物であると判断した」
「ばっ……」
――馬鹿言ってんじゃねーよ!
顔が熱くなり、心のうちから恥ずかしさがものすごい勢いで湧き上がってくる感覚に耐えられなくて想はこう叫んだ。心の中で。そんな自分がまた妙に恥ずかしくて、両手で顔を覆う。
――照れてどうするんだよ!
ここは笑い飛ばすところだろうがと思っているのに、体の反応が正反対になってしまう。
生涯に渡って善良で、幸せにしてやりたい存在だなんて、悶える以外のアクションが取れそうにない。
「そーちゃーん!!」
そこに、激しく扉を叩く音が響いた。
「諌山想、応対のために出て問題ないだろうか?」
「ちょっと待ってくれ……」
部屋の気温が高いせいか、額から汗が出ていた。おそらく真っ赤に染まっているであろう顔を元・ピンクに見られたくなくて、思わず唸る。
照れまくる契約者に目をやって、四谷は扉の前で立ち止まった。
「少々お待ち下さい」
「だれー? そーちゃんを返してよーっ!」
扉を叩く勢いはかなりのもので、オンボロアパートの部屋がなんとなく揺れているような気になるほどだった。
「いいぜ」
ブンブンと顔を大きく振って、力を入れていく。
想がまだ少し赤いしかめっ面を用意すると、超幸運は外で荒ぶる隣人にこう声をかけた。
「今開けますので」
扉が開くと、冷たい空気と一緒に雪がヒラヒラと中に入りこんできた。四谷の向こうにはやっぱりピンク色のコートを着た果林が立っていて、ドアを開けた超美形の外国人の姿に驚いている。
「あれれ、だれなの?」
「今日からこちらに引っ越してきた、四谷圭といいます」
「よつや……、そうなんだ。すごい。ここ、前も四谷君が住んでたんだよ? また四谷さんが住むなんてすごい偶然!」
「私は一昨日までこちらに住んでいた四谷司の兄です」
「あに? あにってお兄さんのこと? そうなんだ。わあ。ビックリしたあ!」
この説明に安心したのか、果林は笑顔を浮かべるとなんの躊躇もなく中に入ってきて、想のすぐ隣に座ってコタツに足を入れた。
「狭いだろ」
「そーちゃんの隣がいいの!」
「冷たいんだよ」
ピッタリと密着してくる果林の表面はよく冷えていて、コートについた雪の粒が溶け、少年の服をところどころ濡らしていく。
「四谷君のお兄さんだったから、そーちゃんもここに来たんだ。すっごい綺麗なお兄さんだね。モデルさんみたい! でもね、でもでも、そーちゃんの方が好きだよ、かりんは」
――うるせえっての。
腕の辺りを押してもまったく退かずに寄り添ってくる果林に、少し焦ってしまう。
地味になった化粧のせいか、こげ茶色に染まってまっすぐサラサラストレートになった髪形のせいか、以前よりもだいぶ可愛らしい気が。
一瞬だがそう考えてしまった自分に思いっきり腹を立てて、想は立ち上がった。
「ひゃん」
「帰るわ。四谷、これからもよろしく」
『了承した』
心の中に響いた声に驚いて、少年は振り返った。
超イケメン外国人になった四谷(新)が、満足そうに微笑んでいる。
「また遊びに来てください。いつでも」
――第二段階の効果なのか?
「そーちゃん、帰っちゃやだー。かりんのお部屋に来て! 一緒にDVD観ようよ~」
今までとあまりにも違う対応に少し戸惑いながら、果林のうるさい声は無視して、想は雪の降りしきる中、家へと帰った。