34 黒の超幸運が選んだ、新しい姿について
部屋の中は暗い。
ベッドから手を伸ばし、時計を掴んで覗き込むと、時刻は目覚ましがなる三分前。
少年はやれやれと体を起こして、いつもより張り切っている自分に笑った。
――楽しみにしすぎじゃねえの、俺。
普段ならもっと布団の中でだらだらしているのに、今日はもう立ち上がっている。
カーテンを開けると外は雨で、部屋の空気が冷たい理由がわかった。
――そういえば、どんなタイミングで来るんだろ、あいつ。
家を出ればそこに立っているだろうか。
それとも、季節外れの転校生ですと澄ました顔で教室に現れるのだろうか。
鳴り出した目覚ましを叩いて止めて、朝食の準備をし、起きてきた父と母に声をかけて。
学校の支度もあっという間に済ませて、靴を履く。
「いってらっしゃい」
かかった声に右手だけ挙げて応えると、想は家を出た。
エスポワール東録戸から出てくる人影はない。
清掃系ピンクはまだ寝ているのか、それともまだ王子様に見せられる髪型が完成していないのか。姿を見せなかった。
大粒の雨に傘を叩かれ、冷たい空気に震えつつ、学校へと急ぐ。
「諌山君、おはよう!」
「よお」
親友と挨拶を交わし、お笑いオタクがじっと見つめてくるのは、無視。
「諌山君、また試験勉強を一緒にやらないかい?」
「いいね」
そこでふと、脳裏に母の顔が浮かんだ。
家事と快適な試験勉強ライフの両立は、可能なのだろうか。
――どーしたもんかね?
友達の家でお勉強するとなれば、喜んで送り出してくれるだろう。
有事の際には呼び出してもらえば問題ないだろうか?
外に舞い始めた氷の塊を見ながら、少年は考える。
「諌山君は最近、忙しいのかい?」
「まあね」
お坊ちゃまはその理由を聞きたそうに様子を窺っているが、親友からの返事はない。
「寒いな」
始業のチャイムが鳴る。
生徒達は自分の席に戻って、扉が開いて担任の教師が登場したが、転校生の姿はなかった。
昼休み、仲島家謹製リッチ弁当をつまみながら想は携帯電話を取り出した。
どこで落ち合うか、メールで指定すればいい。
では、どこがいいだろう。
――ああ、でも、どんな姿でくるかわかんねえからな。
醜い老婆の姿で現れる可能性もある。とんでもない美少女の姿の可能性もある。
一介の男子高校生がなぜそんな人物と?
そんな疑問を持たれる姿で現れたら?
わからない以上、人目のある場所で会うのは控えたい。
事前にどんな姿か写真でも送ってくれれば助かるのだが、超幸運にそんなサービスはないだろう、きっと。
「諌山君、今日はなんだか上の空だね」
「……なんか悪い?」
「柿本さんが君には、そのー、ピンク色の彼女がいるって言っていたから」
――あのクソ女。
チッと舌打ちをする親友に、仲島が焦る。
「彼女じゃねーよ」
「ああ、そうなんだ。はあ」
ほっとしたような、困ったような顔をして、ボンボンはお茶を注いだ。
お弁当セットにはカップが二つ用意されているらしく、想の分も用意してくれたようだ。
「凍頂烏龍茶だよ」
「サンキュー」
爽やかな香りと温かさで、少年の眉間に入った力が緩んでいく。
「で、そのピンクさんとはどういう関係なんだい?」
黙ったままじろりと睨まれて、仲島の顔は強張ったまま固まった。
二人の男子高校生の間に漂う空気は、雪が降っている外気と同じくらいの温度まで冷え込んでいく。
「ごめんなさい」
「おう」
体を小さくして食後のお茶を飲む姿は少しだけおかしくて、想はふっと笑うと豪華な重箱の後片付けを手伝った。
――で、どうしようかな。
午後の授業ははっきりいって、百パーセントだるい。面白いとかつまらない以前の問題だ。
美味しいご飯の後は至福のまどろみタイム。
瞼を閉めようとする重力と戦いながら、想は考えた。
マンションの屋上なら誰も来ないだろうが、あいにくの天候で、外で会うのは嫌だ。
家にはずっと母がいる。
あの秘密基地さえ存続していれば問題ないのに。
数学の教師が黒板にチョークを打ちつける音をぼんやり聞きながら、想はボロアパートの木製の扉を思い出している。
『……』
声がした。
だらっと机に預けていた体を起こして、背筋を伸ばす。
「ここ、試験に出るからな!」
教室に響いているのは教師の声だけ。では、先程のものは?
――あいつかな。
そわそわしながら、長い長い数学の時間をやり過ごしていく。
手はちっとも動かないのに、足はずっとプラプラ動いて、床を撫でている。
ようやく授業が終わり、想は携帯電話を取り出して、夢中で文字を打ちこんでいった。
アドレス帳に登録されたメールアドレスはまだひとつ。
得体のしれない文字列が届ける先は、地球からのギフトの一つ。ナンバー4、「黒の超幸運」だ。
――エスポワール東録戸 一〇三号室 放課後すぐに行く
簡潔な文章を打ち込んで、すぐさま送った。
ダメなんて言わせない。本契約までした、選ばれし者の要請なんだから。
相手はすべての願いを叶える存在の「超幸運」。それに、こう聞こえてきたのだから。
『待っている』
心に届いた、初めて聞くのに、いや、聞いたとはいえないけれど、届けられた「声」に、もう親しみを感じている。
「諌山君、今日はうちに遊びに」
「パス」
お誘いを簡潔な言葉で断り、玄関へと急ぐ。
外はまだ雪で、地面は薄い白で覆われていて、スニーカー型の足跡をつけながら校門へと走る。
いつもよりずっと早くたどり着いた。なんだか懐かしいボロアパートの前。
縁の欠けた石段、薄汚れたなんらかのメーターに、レトロな扉。
雪にまみれたスニーカーのまま進んで、想はドアノブに手を伸ばす。
「そーちゃん!」
――げっ
「かりんのおうちはこっちだよ! 寒いから、早く中に入って~」
隣のドアを少しだけ開けて、果林が手招きをしている。
「いかねえよ」
「えー、なんでなんで? 四谷君、もういないんでしょ?」
それは、一〇五号室に招かれる理由にならない。
「悪いけどまた今度な」
「今度っていつ? そーちゃん、風邪ひいちゃうよ。あったまっていきなよ。かりんがポカポカにしてあげるから!」
「いらねえ」
「あのね、髪の色も変えたの。そーちゃんの好みになったか、確認してっ!」
その言葉につい視線を向けると、果林は扉を開けて、笑顔でぴょこんと飛び出してきた。
想は慌てて視線をそらして、唸る。
――なに注目してんだよっ、俺は!
果林はわざわざそらした視線の先に立って、少年の顔を覗き込んできた。
仕方なく見た結果、メイクは清掃系で落ち着いており、地味で素朴に変化したことがわかる。
以前の邪悪なメイクをしていた時よりも少し幼い印象になったようだ。
「そーちゃんがピンクじゃ変だって言うから、茶色にしたんだよお」
果林の一番の特徴だったふわふわと広がっていたピンクの髪は、落ち着いたこげ茶色、しかもストレートヘアに変わっていた。
想がうっかり考えてしまったイメージに近くなっているが、ファッションは変わっていない。
相変わらずの甘いベビーピンクのゆるゆるスウェットの上下で、こちらは想の好みからはだいぶ外れている。
「はやくおいでよー」
ピンク色の腕が絡みつき、ストレートになった髪がふわりと少年の頬に当たる。
すぐさま振りほどいて、想は顔をくしゃくしゃにしかめている。
「いかねえっつってんだろ」
――超幸運、いないのかよ?
そう考えた瞬間、一〇三号室の扉が開いた。
「あれえ?」
ドアの中から出てきた長い腕が少年のコートの襟を掴み、部屋の中へとあっという間に引きずりこんでいく。
「そーちゃん!」
ドアには即座にカギがかけられ、果林は何度も扉を叩いたが、寒かったのか諦めて部屋に戻ったようだ。
「諌山想、願いか質問が出来たのだろうか」
「お前……なんだその姿は」
いつも通りのセリフに振り返って、新しい黒の超幸運の姿を確認すると想はニヤリと笑った。
色白の肌、すらりと細いスタイル。胡桃色の柔らかそうな背中までの長髪。髪とお揃いの色の瞳には長い長い睫毛がかかってアンニュイな雰囲気を醸し出しており、高い通った鼻筋、表情なく結ばれた唇も形が良い。
「どこの王子様がその辺でのたれ死んでたんだよ?」
「この肉体はどこの国の王族のものでもない」
少年はニヤニヤと笑いながら、目の前の超幸運に心底呆れた。
「お前、目立たないようにとか言ってなかった? すっげえ美形の外国人がこの辺に住んでるって、おばちゃんたちが騒ぐぞ、どう考えても」
無表情で立つ長身の青年は、雑誌に掲載されていてもおかしくないレベルの完成された美しさだ。
着ている物は予算が足りないのか、無難で安っぽかったが。
「諌山想が女性の体は選ばないように命じてきたので、やむを得ずこの肉体を選択することになった」
――約束、守ったからなのか。
「また、諌山想はこの部屋を気に入っていたので、この肉体は四谷司の兄という設定にしてある。この肉体の仮の名は『四谷圭』。『土』という漢字を上下に二つ並べたものだ。よろしく頼む」
「はははは!」
しれっと述べる新しい四谷に、想は大きく笑った。
「お前、兄とか無理があるだろ! 人種が違うじゃねえか!」
「四谷家には複雑な事情がある。人はそれを察して気を遣い、深く踏み込んで来ない」
この発言にもゲラゲラと笑ってしまう。
想は秘密基地の存続と超幸運の新しい姿が男性だったことに安心して、置きっぱなしだったコタツのスイッチを入れると、暖かい飲み物を買いにコンビニまで走った。