30 少年の心に起きた革命
りんごの皮をくるくると剥いていく。
そんな作業をしたのは初めてで、長くつなげていきたいはずの皮は分厚く、すぐに途切れてしまう。
最後の赤い部分がテーブルに落ちて、ひとまわり小さくなった林檎の姿に想は思わず苦笑していた。体が弱っている人間に、まるかじりスタイルで林檎を出すのか? と。
まな板の上で八等分にして、種の部分を切り落とす。少年はそれを皿の上に乗せると、ソファに横たわる母の前に置いた。
「……ありがとう」
「林檎なら食べられるかな」
「うん」
瞳を開けて微笑む母。
目を逸らして、床に敷かれたカーペットを睨む息子。
「会社ってもう、辞めたの?」
ようやく当たり障りのない質問が見つかって、少年はこう呟く。
「まだよ。今は有給消化中。もうちょっと落ち着いたら、出社して引継ぎしないと」
想の返事は「ふーん」の一言だけ。いつもだったら。
今日はセンチメンタルな気分が心の奥の方から久しぶりに出張してきていて、もうちょっと話したらどうだい? なんて提案をしていた。
たまには、そんなのもいいかなと想は考えて、ゆっくりと次の台詞を探す。
「いいの? 会社辞めて……」
答えの前に、シャリ、という音がリビングに響いた。
部屋の中は静かだ。テレビも消えていて、親子の息遣い以外に聞こえるのは時計が時を刻む音だけ。
「いいのよ。もう、決めたから」
「ずっと勤めてきたのに?」
そう。ずっと働き続けていた。母は、自分よりも仕事を優先した。
胸の奥にひっかかってしまった魚の骨のようなもの。
大きすぎて飲み込めないし、吐き出すこともできないままだった。
無表情の奥に潜む息子の心情に気がついたのか、母の眉は八の字になって、悲しげな表情を浮かべている。
「離婚するって言ってたのもマジだったのか、ついでに教えてくれない?」
少しだけ齧られた林檎が皿の上に戻り、母の口が小さく開いた。
けれど、なかなか言葉は出てこない。
静かに時計が刻む音が響いているが、それ以上に強烈な静寂がリビングの空気を締め付けている。
「あれは……」
質問から何分経ったのか、ようやく声がした。小さなため息は決意の証だったのか、ふうとやけに大きく響いた息吹の後に言葉は続く。
「本当は、するつもりだったのよ。想がどうしたいのか、知りたかった。なにが嫌で、どのくらい許せないでいるのか、全部知りたかったの。この子たちも諦めるつもりだった」
少年の心は、まだ動かない。
「あのクリスマスの時は、大失敗だったね。本当はお父さんが帰ってきてからちゃんと聞こうって決めていたのに。感情的になっちゃって、先走って、すごく嫌な気持ちにさせたと思ってる」
母は小さい声で、ごめんねと呟く。
「しかもその後、試すような真似をして本当に悪かったと思ってる。二人で随分反省したの。私達は結局、自分達でなんとかしようって考えていなかったって。想はもう十六歳なんだから、しっかりしてるからって、いい大人のお父さんとお母さんのことまで決めてもらおうとしてた。バカみたいよね。私達は結局……」
母の目からポロポロと落ちる涙は、最近やたらとよく見かけるようになった諌山家の風物詩だ。
そう考える息子の表情に、陰が落ちる。
「結局、なによ」
「あなたよりも子供だった」
――なんだよそれ。
「自分達のことばっかりだもの。私は母親でいるよりも、妻でいるよりも、仕事をこなしている現役の女でい続けるのを優先してた。お父さんはそれを応援しているフリをして、家庭なんて見ないままずっと過ごしてきた。それは全部、想を犠牲にして、だから。未来がある子供を犠牲にして、親が充実した人生送ってますなんて……」
落ちる涙の粒が大きく、多くなっていく。言葉は途切れ、嗚咽に変わる。
それに、少年は、盛大なため息で答えた。
「やめてよ、そういうの。俺、パスだわ」
嫌そうに顔をしかめる息子に、母はなにを思ったのか、こんなセリフを返した。
「優しいね、想は」
――えー?
「こんな情けない私達を、許してくれるんだもんね……」
後はもう大きな泣き声だけをあげ続ける母に少年はどうしようもなく困って、仕方なくその背中をそっと撫でてやった。
父が帰ってきて、ぎこちない夕食を終えて、少年は自分の部屋にやっと戻って、今日何度目だかわからないため息をついている。
――なんなのかね、アレは。
母が出した結論である「優しい」認定にゾワゾワと寒気を感じて、腕をさする。
今更過ぎる家族ごっこに、辟易するばかり。そう考えて、ベッドに身を投げ出したのに。
なぜか出てきた涙で、天井が霞んだ。
見慣れたクロスがぼやけて見えて、想は強く、きつく、目を閉じた。
「なあ、四谷」
次の日の朝、いつも通りの登校風景。この日は隣のドアからノーメイクモンスターが出てこなくて、ほっとしながら、二人で並んで歩く。
「なんだろうか」
「俺がすぐに料理できるようになるとか、そういうのって可能?」
「それを願いとして叶えたいのか?」
いつもと違う反応に戸惑い、少年は考えをめぐらせてみた。しかし、答えは出ない。
「なにその言い方」
「料理というのは、たとえば修行を重ねたプロフェッショナルの作るものを求めなければ、どんな人間もそれなりにこなせるものだ。諌山想も詳細な作り方を記した物があれば、それなりの食事の作成は現時点で可能であり、それ以上を求めるのかどうか」
「そういうことね」
いつも通り区切りのない長い話にストップをかけて、少年は空を見上げた。
電線の張り巡らされた、ジグソーパズルのような冬の空。
見慣れた細切れのくすんだ青に、吐いた白い息が広がっていく。
「やってみりゃ、案外できるって?」
「その通りだ」
超幸運にお墨付きをもらって、想はこの日帰宅するとインターネットでレシピを集め、母が通った料理教室から持って帰ったり過去に購入してあった料理本に目を通した。そして、次の日からしばらくの間、諌山家の料理人になると決めた。
「想、わかるの?」
様子を窺ってくる母に背を向けたまま、想は顔をしかめている。
――おかーさんよりはだいぶできるみたいですけど?
野菜の皮を剥いて、細かく切って、肉や魚に下味をつけて。やってみればどんな作業も、それなりにこなせるとわかった。
壊滅的な不器用でもなかった少年は慎重に味見をして、すべては書かれている手順通りに。
夜が来て、諌山家の食卓には三人分の、無難な和食のメニューが並べられている。
「これ、想が作ったのか?」
「ま、ごくノーマルな味なんじゃないの? 本に書いてあった通りなわけだし」
父は驚いているようだが、特別なことはなにもしていないのだから、こう答えるしかない。
「すごいな」
隣では母が、絶妙な表情を浮かべている。
「食べれそうならどーぞ」
諌山家の食卓には息子の手料理が並ぶようになったのは、産婦人科で見かけた妊婦の栄養がどうのこうの、と書かれたポスターの影響だ。
毎日コンビニ弁当を買ってクラスメイトの部屋で食べるのはやめ、仲島家の料理を味わうのはお昼の立派なお弁当をわけてもらうだけにし、朝、たまに絡んでくる果林を適当にあしらいながら日々を過ごす。
気がつけばエスポワール東録戸を訪れないまま、一ヶ月が過ぎていた。
朝と帰りはいつも通り、少し前後に並んで歩いている。
しかし、聞きたい未来も叶えたい願いもない状態の少年と超幸運の間に、会話はない。
家族のために時間を使う自分に、疑問がないわけではない。
何故こんなことをしているのか。
それが母のためなのか、まだ見ぬ二人の兄弟のためなのか、想にはよくわからなかった。
――まあ、いいんじゃないの、こういうのも。
どこかぽっかりと胸に空いたような、不思議な脱力感。
いや、単なる脱力とは違う。今まで体中に入っていた力が抜けて、楽になっている気持ちを持て余しつつ、満足のようなものを感じながら目を閉じる。
大きく変化を遂げた息子に、母はなにも言わない。時折一緒に台所に立って、その様子を静かに見つめるくらいだ。
黙ったまま母を支える息子に、父はなにも言わない。ただ、一日の最後に必ずおやすみと声をかけに部屋にやってくるようになった。
――なにやってんのかな、俺。
自嘲の笑みが浮かんできて、想は目を閉じ、部屋のあかりを落とした。
一年のうちで最も寒い、布団から飛び出した顔だけがひんやりとしてしまう、二月。
――らしくねえ。
こんな少年に、十六日が終わったその瞬間、呼びかける声があった。
『諌山想』
閉じていた目を開いて、そして、動けない。
久しぶりに聞いた、黒の超幸運の声――。
『二月十七日だ。私とともに、行くか?』
――大集会か。
そばに四谷の姿はない。どこから声をかけているのか、あの肉体はもう放棄されたのか。
共に行く必要性の検討と、小さな疑問の数々。
それらを考える前に、体が勝手に答えてしまった。
「待ってたぜ」
『ならば招待しよう。諌山想、目を閉じろ』
指示の通りに、開いた目をまた閉じていく。
真っ暗な視界に一気に入り込んできたものは、ひたすらの青。
目を閉じているはずのまぶたの裏に、どこまでも真っ青が広がっている。
『たどり着いた。もう、目を開けてもいい』
超幸運に促されるまま瞳を開けるとそこは、上も下も、右も左も真っ青な、得体のしれない空間だった。