29 心が震える理由と心境の変化
「あの柿本って女、もしかしてお前をストーキングしてんの?」
「ストーキングと言える程ではない。帰り道についてきて住所を確認し、時折そこの電柱の影で四谷司がどこかへ外出しないか、部屋に他人が出入りしないかなどのチェックをしている」
――ズバリ、ストーキングってヤツじゃねえの?
ひそひそと男子高校生が二人、話しながら歩いていく。
少年と超幸運はいつも帰り道を共にしてはいたが、こんな風に隣を歩きながら長い会話を交わしたのは初めてだった。
「お前って外に出ないよな」
「外出はほとんどしない。なので、柿本史絵は四谷司に関して、諌山想が気安く家に出入りしている間柄の友人である以外の事実を把握できていない」
「しょうもねえ話だな」
学校から二十分も歩けば、二人は自宅にたどり着く。ちょうど家が見えてきたところで、少年のポケットに入っていた携帯電話が震え始めた。
小さなディスプレイには、母、と表示されている。
「はい」
応答すると、苦しげな声が小さく、想の耳の中に入り込んできた。
一〇三号室でちょっとダラダラしてから帰ろうという予定は中止になって、少年は母に付き添い、駅前の産婦人科に来ていた。
午後から診察の予定があって、一人で行こうと思っていたけれど、やっぱり体調が良くないから一緒に来て欲しい。そんなお願いをあんな苦しげな声でされれば、さすがに断るなんてできないワケで。
去年、超幸運に出会ってからというもの、想の母への気持ちは複雑なものになっている。
それまでは無関心でいた。なにも思うまいと心に決めて、そのように接してきた。
今の自分の母への気持ちは、想自身にもスッキリと理解できるものではなかった。
無碍に突き放すほど憎しみが強いわけでもなく、優しさを前面に出して暖かい言葉をかけるまででもなく。あらゆる感情の中で苦しさが少しだけ勝っている、全部入りの混沌とでもいえばいいのか。とにかくわからない。悲しくて寂しくて、安堵もあるけれど、実体のないモヤのような――。
「ごめんね、想、ありがと」
「うん」
あと十五分したら午後の診察が始まるという産婦人科の中には、たくさんの女性があふれていた。その中になんとかスペースを見つけて、想は母を座らせる。
「どこかでご飯食べて来たらどうかな。ここにずっといるのは、さすがにイヤでしょう?」
その通りで、絶対にイヤだ。
大小のおなかを抱えた妊婦達の付き添いは、夫や恋人らしき男性、母親や上の子供であろうチビッコばかり。想はもちろん、廊下に座り込んで絵本を読んでいる二歳くらいの女の子と同じ「上の子」にカテゴライズされる存在なのだが、周囲の目はあまりそう判断してくれていないように見える。「年増女性と若いツバメ」という組み合わせを想定しているものもあるようで、気分が悪い。
「午後一番で予約が入ってるからすぐ終わると思うの。早く終わったら電話するから」
「わかった、じゃあ行ってくるよ」
駅前の中にある定食屋で食事を終えて戻ってくると、母はまだぐったりと待合室のベンチで座っていた。
「まだ診察終わってないの?」
あれからもう四十分も経っているのに。
「分娩があったから、ちょっと遅れるんだって」
――ブンベン?
そんな会話をしていたら、医師らしき白衣の女性がドカドカと廊下を勢いよく歩いてきて、診察室の中へ吸い込まれていった。
「終わったのかな」
「ブンベンって?」
「お産よ」
「ああ……」
弾まない会話に想が顔をしかめると、診察室の扉が開いた。
「お待たせしましたー、諌山さんどうぞー」
ふらふらと立ち上がる母に、仕方なく手を貸してやる。
扉の前についたところで、看護師らしき女性がおずおずと声をかけてきた。
「えーと……旦那さんも一緒に入られます?」
「息子です」
「あ、ごめんなさい、失礼しました」
慌てて謝る看護師に改めて一緒に入るかを問われ、もちろん断って少年は待合室へと戻った。
待合室の出入り口付近に立って、母が戻ってくるのを待つ。
初めて足を踏み入れた産婦人科の中には、みたことのない類のポスターがあちこちに貼られていた。
検診がどうの、自治体からの助成がどうの、臍帯血バンクがどうの、妊娠中の食生活がどうの。それらに目をやり、しょうもないと目を逸らし、また、なんとなく見つめる。
しばらくしてようやく、母が診察室から出てきた。
――よろよろじゃないの。
そう思ったのに、体は動かない。離れたところから見る「母が歩く姿」に目を奪われたからだ。
げっそりした頬に、青い顔。
下を向いていた視線が上がり、息子の姿を捉える。そして、少しだけ微笑んだような顔をする。
「おまたせ、あと、会計があるからもうちょっと待って」
「わかった」
想はキョロキョロと辺りを見回し、椅子の空いているスペースを見つけて、座るように母に告げた。
会計も、かわりに窓口へ行って支払いを済ませてやる。
駅前の医院から家までは、歩いて十二分程の距離だ。
「想、なにか食事買って帰ろうか」
「いいよ。俺が後で行くから、とにかく帰って、休んでろよ」
――妊婦なんて太っていく一方だと思ってたけどな。
母は前よりも痩せてしまっているようにみえる。最近、食事もロクにしていないようなのでそれは当然の結果なのだろうが。
「ありがとう」
涙声で返事をされて、少年は顔をしかめた。
「泣いてんの?」
母の返事はなかったが、カバンからハンカチを取り出して目に当てているのだから、涙は出ているのだろう。
「なにか食べれそうなものないの? 最近まともに食ってるとこ見てないけど」
少し前に検索した、妊娠についての情報を思い出していく。が、今現在活用できそうな知識は仕入れていなかったらしい。
「フルーツくらいなら食べれるかなあ」
「フルーツね」
長い間あまり積極的な交流をしてこなかった親子の会話は弾まない。
ただ、黙ったまま冬の弱々しい光の中を、並んで歩く。
マンションに帰り着くと、ソファに座り込み、母はふっと笑みを浮かべて息子にこう話しかけた。
「私、もしかして顔がひどいかしら?」
「ゲッソリしてる」
「ちゃんと食べないとダメよね。心配かけちゃうし、体ももたないし……」
話しながら、母はカバンの中をゴソゴソと漁って、ペラペラの小さな紙を息子へ差し出した。
「なにこれ」
「エコー写真よ。赤ちゃんがうつってるの」
黒い四角の中に、ぼやっとした白いモヤモヤがプリントされている。
訳のわからない小さな数字も白いモヤモヤも、高校一年生の男子には「なにがなんだか」としかいいようがない。
「これが赤ちゃんなの」
母が指さしたのは、白いモヤの中にある二つの大きな黒い丸の更に中にある、小さな白い塊。
「へえ」
気のなさそうな返事をする息子に、母はふっと笑った。
「七月に生まれる予定なのよ」
「男? 女?」
「まだわからない」
そんなのがわかるのはまだ先よ、と母は笑い、最後にこう付け加えた。
「だけど、両方かもね」
「両方?」
「双子だもの。想、夏からは大変よ。色々手伝ってもらうことになるけど、頼むわね」
夕食用の買い物のために家を出て、想は、エスポワール東録戸の一〇三号室の前でしばらく立ち尽くした。
『諌山家の第二子はまっすぐな子供に育つ』
あの言葉の意味はなにを指すのだろう。
第二子というのはあの時、超幸運が見通した未来で判明した性別だの名前だのを隠すための苦し紛れでした表現だと思っていた。
そう考えれば、第三子、という単語が出てこなかったのも同じ理由だと思うべきだ。じゃじゃーん、なんと! 双子ちゃんでしたー! 的なサプライズのために隠しただけ。それでいいはずだ。
それなのに、想の心には不安が湧きあがってきていた。
第二子だけしか生まれないという可能性があるんじゃないか。
母のあのげっそりとした様子、年齢だって結構高めの四十一歳。
悪いことが起きて、今育ちつつある命の片方が失われるなんて展開も。あるかもしれないわけで。
いつもなら簡単に開けられる薄い木の扉に、手を伸ばせない。
早く聞いて、早く帰るべきなのに。
今までに見せたことのない不安げな顔で、ぐったりとソファに横たわる母が、自分の帰りを待っているんだから。
ドアノブに手をかけ、ひねる。くるりとまわって、そういえば隣のピンクは昼バイトだと言っていたことを思い出す。
「諌山想、質問ができたのだろうか」
「……もうわかってんだろ?」
「質問は必ず口に出してもらう必要がある」
想はそれに舌打ちをして、しばらく下を向いたまま黙り続けた。
オンボロアパートの玄関にはなんの工夫もなくて、外と気温が変わらない。
部屋の中のファンヒーターも勿論ついていないから、一〇三号室の温度も外と同じなのだろう。
少年が白い息を吐き出している目の前で、超幸運は微動だにせずに黙っている。
――ホントに、こいつ、生きてないんだな。
四谷の前には、白い靄は広がらない。
想の頭の中にある思考はそんなものだったが、口は勝手に開いて、超幸運に質問をぶつけた。
「俺はもう未来について質問をしないって決めた。中途半端に知ってもいいことなんかないってわかったから。だからこれが最後だ。教えてくれ、超幸運」
「なんだろうか」
「……俺の兄弟は、今年、何人増えるんだ……?」
まっすぐに四谷の顔を見ていられなくて、想は視線を少し、下にそらした。
何故かわからなかったが、高校の制服姿のままの超幸運の胸のネクタイの紺色ばかりが見えた。
長い時間が流れたように思えたが、超幸運の返事は、すぐ。想が感じたよりもずっと早く、契約者に示された。
「二人だ、諌山想。双子の性別の内訳、将来与えられる名も聞きたいだろうか?」
返事のかわりに、暖かい息が大量に少年の口から吐き出されていく。
――脅かしやがって。
「いいよ。それは……、楽しみに取っておく」
「ならば言わないでおこう」
顔を上げると、珍しく超幸運は微笑を浮かべていた。
安心した反動からかその笑顔に妙に苛立って、想は思いっきり舌打ちをすると、ボロアパートを後にした。