25 超幸運と契約者の運命の共有について
家に戻った少年は、具合の悪そうな母を一人家に残し、物心ついてから初めてかもしれない父と二人きりのお出かけを果たした。
さまざまな電話機が並ぶ中、息子が手に取るのは最新型でも大人気機種でもないものばかりで、父はついこんな質問をしてしまう。
「それでいいのか?」
「通話できりゃいいだろ」
シンプルな機能の電話機は、もう店頭にはあまりないらしい。シニアかジュニア向けの簡単なタイプではさすがに見た目があんまりだったので、想は仕方なく無駄に色んな機能が搭載されている黒いものを選んだ。
「余計なオプションとかいらないんで」
店員は、あらそう、みたいな顔で仏頂面の少年を見ている。
一番安い料金プランで契約を済ませると、親子は年越しのための買い物に向かった。
「帰ったら大掃除をするから手伝ってくれ」
「……わかった」
「夕飯はなにがいい?」
「なんでもいいよ」
会話が弾まないことこの上ない。間が持たないと父は悩んでいるが、息子は知らん顔で無言を貫いている。
家に帰ると、男二人の大掃除が始まった。普段から誰も散らかさない家の中は整然としていて、キッチンだってまともに使ったのは今年に入ってから四回程度。つまり、必死になって清掃をしなくてはいけない場所はない。部屋中に掃除機をかけ終わったら、父が風呂場を担当し、息子は玄関と廊下を美しくしていく。
掃除機をブンブンかけていると、母がトイレに駆け込んでまたげえげえし始める。
想は風呂場に顔を出し、壁をスポンジでこすっている父にこう尋ねた。
「トイレ掃除は?」
「……今はいい」
そいつはラッキー、と少年はふふんと笑う。
諌山家の小規模な大掃除はあっという間に、夕方になる前に終わった。
誰かが腕を奮うディナーなど、先日のクリスマスを除いて諌山家には長い間存在していない。
今夜の食事も出来合いのものだ。適当に買ってきたものを適当に食べて済ます、いつも通りの夕食の光景。
一つ違うのは気分の悪そうな母の姿で、こちらはフルーツを少し口にするくらいで終わった。
夫が妻をいたわっている横で、その息子はまた知らん顔をしていつものように夜の散歩へ繰り出していく。
四谷の部屋にドリンクのサービスはないので、少年はまず、コンビニへ向かう。
不安はあった。想の心配は見事に的中して、店に入るなりレジの中からピンク色の声があがる。
「そーちゃん! いらっしゃいませー!」
さすがに仕事中と弁えているのか、果林が突然抱きついてくるような展開はなかった。しかし、やってきたお客の高校生に手がブンブンと振られている様子は目立って、他の客も店員もジロジロと見つめている。
それに構わず、想はホットドリンクのケースからコーヒーを取り出して男性の店員が立つレジに向かった。
「そーちゃん、かりんはこっちだよー!?」
男性の店員は、どうやら加藤君というらしい。二十歳そこそこくらいに見える加藤君は、困惑したような表情で同僚と客を交互に見つめている。
「お願いします」
「あ、はい」
「そーちゃん、なんでかりんのレジに来ないのー?」
声のする方に顔を向けずに、想は眉間にぐっと皺を寄せた。
「そーちゃんの意地悪ー!」
「百二十六円です」
財布から小銭を取り出し、ぴったりの額を台の上に並べていく。
「でも大好きー! そーちゃん、一緒に紅白観ようよー!」
「うるせえっ」
さすがに注意した想を、加藤君が驚きの表情で見つめている。そんな彼からコーヒーを受け取って、少年は顔をしかめたまま店を出た。
「やっぱり他の王子様を用意してくれ」
「今から用意するとなると、二年と四ヶ月かかるがいいだろうか」
「なんで伸びてんだよ……」
悪態をつきつつ、コタツのスイッチを入れる。相変わらず動作する気配のないファンヒーターは部屋の隅でじっと黙りこくっていて、それに舌打ちをしながら想はコーヒーの蓋を開けた。
「それって最善の場合にかかる年数なんだろ? なんで俺があいつに最善の運命用意しなきゃなんねーんだよ」
「そうではない。諌山想、最初に説明をしたはずだが」
「なにをよ」
「他人の邪魔をする場合の条件についてだ」
想の脳裏に、契約をした日の放課後の光景が思い起こされる。確か、野球部のうるさい掛け声を封印できないか尋ねたはずだ。
「……相手のためになって、かつ、俺のためにもなる場合はいいんだっけ?」
「その通りだ」
少年の口から、今年最後で最大級のため息が漏れ出てきた。
「なんだそれ? 意味がわかんねえ。邪魔ってなんだよ」
「森永果林にとって、諌山想と共に過ごす時間は重要な成長の機会となる。この機会を失うのは森永果林にとって大きな損失となり、その運命を不幸なものへと変貌させる」
「知るかよそんなの!」
「また、森永果林との時間の共有は諌山想にとってもより良い人生を歩むために必要な要素となっているので、それらを超えてもっと良い状態になるためには二年と四ヶ月の時間がかかる」
――はい?
ピンク色の花で囲まれた能天気な笑顔が、ポンっと脳裏に浮かんで、弾けて消える。
「俺にとって必要な要素ときたか」
「そうだ」
――どの辺が?
思考のゴミが降ってくる。焦げた色の、大小さまざまなゴミが心の中に降り積もっていく。
「どの辺がどうなのか詳しく頼む」
「それをすべて説明するのには二時間と十五分かかるが時間は大丈夫だろうか」
「長えわ」
――どんなドラマが待ってんのよ、あいつと俺に。
心の中のブルドーザーのエンジンはなかなかかからない。積もって山になった黒い感情の燃えカスをどうしたものか。悩みつつ、想は口を開いた。
「俺ってあいつと付き合うことになるわけ?」
「付き合うというのが男女間における恋愛関係を指すのだとしたら、違う」
「違うんだ。じゃあ友情?」
「愛情よりは友情の方が近いだろう」
「そういう曖昧な言い方やめてくれない? なんだよ、友情でも愛情でもないものって」
四谷がぴたりと動きを止める。想はそれを見咎めて、眉間にぐっと皺を寄せた。
「また止まったな。なんだそれは、超幸運さんよ」
「なんでもない。諌山想と森永果林の間に発生するものは、表現が非常に難しい。しいていうのなら」
「しいていうなら?」
「親愛、が適当だと思われる」
想は目を閉じ、眉間のあたりを小指でぽりぽりと掻きながら呟く。
「わかんねえわ」
少年が呟くと、超幸運は小さな声でこう答えた。
「なにもかも理解する必要はない」
――このやろう。
澄ました顔にムカつきつつも、どうやらあのアホピンクと恋人同士にならなくても良さそうだという話にはほっとして、コーヒーを流し込む。
そこに、けたたましい電子音が鳴り響いた。
真新しい電話の呼び出し音の設定は、デフォルトの「パターン1」のまま。
『想、どこにいるんだ?』
「すぐ帰るよ」
父からの問いに簡潔に答えて、通話時間は七秒で終わる。見事な携帯電話デビューを済ませ、少年は立ち上がった。
「諌山想」
超幸運が珍しく呼び止めてきて、想はドアの前で足を止める。
「なに?」
「明日この家を訪れると、森永果林が現れて一緒に紅白歌合戦を観ることになる」
「……はははは!」
――とうとう白状しやがったな! 未来が読めるって!
いつも通りの無表情に向けてニヤリと笑い、つっこみを入れようとした瞬間、ふと気付く。
「どこで観んの? テレビないのに」
「一〇五号室へ強引に連れ込まれ、それが諌山想にとって年頃の女性の部屋に入った初めての経験になる」
「最近の四谷君は随分余計なことを言うようになったんじゃないか?」
これも本契約になったからなのだろうか。想は少し考える。
しかし、こんな風に未来の予定に関して簡単に言及してくるのはやはり不思議だ。そこには少年を不快にしないための配慮以外のなにかがありそうな気がして、更に考える。
そして出た、一つの結論。
「もしかしてお前もあいつが迷惑なんじゃねーの?」
「その通りだ。われわれが一番困るのはああいった思考の回路が乱れているタイプの人間で、ベタベタと触れられたり、考えなしの台詞を大声で出されると、対応が難しくなってしまう」
「あははははは!」
あまりにも正直に白状した超幸運に、少年はゲラゲラと大きな声で笑った。
「おまっ……、なんでもアリなくせに……! はははは!」
「本契約をした契約者と超幸運は運命の一部分を共有する。われわれは超幸運と契約をした人間以外には伏せられておくべき存在だ。少しだけ、契約者にも付き合ってもらわねばならない場合もある」
「いいぜ! 全っ然、問題ねえし!」
まだケラケラと笑う想に、四谷はキリリとした顔でこう告げる。
「ただし諌山想が森永果林とともに明日の紅白歌合戦を視聴したい場合には、私にそれを止める権利はない」
その言葉で笑うのをピタリと止めると、少年は「そんなわけねーだろ!」と捨て台詞を吐いて、エスポワール東録戸を後にした。