23 晩餐会 ~エスポワール東録戸にて~
「ねーねー、四谷君なんで食べないの?」
エスポワール東録戸一〇三号室で始まった鍋パーティ。部屋の主は正座をしたまま、コタツに足もいれず、皿にもコップにも手をつけずに黙っている。
果林がわあわあと、食べないことを追求をしている様子を少年はニヤニヤとしたまま見つめた。
さすがの超幸運も、こんな常識の通じないタイプへの対応は難しいらしい。
「ねーねー、四谷君、国産和牛だよ、サンジューサンなんだよ?」
――サンジューサン?
「森永さん、それはミエと読みます。サンジュウと書いてミエです」
「ミエ? ミエってなに?」
「県名です」
「頑張ったってこと?」
「違います。一生懸命の懸命ではなく、都道府県の一つ、三重県のミエです」
まったく理解が出来ない様子の果林と、冷静で丁寧な説明を続ける四谷の会話は漫才と化している。
「そんなの知らないよ! 初めて聞いたけど。ねえ高田君!」
「俺?」
頬を膨らませている果林の顔に、少年は思わず笑ってしまう。
「高田じゃねえし」
「あれ、そうだっけ。ごめん。でも、ミエは知らないよね!」
自信満々で確認してくるその姿に、苦笑しながら想は答えた。
「常識だろ」
「ほら、四谷君! ミエなんか知らないのは常識だって!」
――わお。
どこまでも斜め上方向に進んでいく会話に、驚くしかない。
そして突如、果林は更にその上へのステージへと勝手に上がっていってしまった。
「あ、もしかして四谷君……外国の人なんだ? だから、お鍋食べられないんだね、ごめんごめん」
何故そんな結論が急に出たのか、当然理解できないままチラリと視線を動かし、少年はぶぅっと噴き出してしまう。
――四谷、安心してるし!
超幸運はこの展開が都合が良かったのか、こくこくと頷いている。
果林が懸賞で当てたのは四人前の肉と野菜のセットで、お構いなしにすべてが放り込まれた鍋はこんもりと山を作ってどうにもならない状態になっていた。いつ崩壊してもおかしくない野菜の山は少しずつかさを減らしていっているものの、全部が中に収まるのはやはり無理な話で、時間が経っても食べられる状態にならないままだ。
「なあ、これ、上の方ちょっとよけたらどうだ? これじゃいつまで経っても食えないぜ」
「そうかなあ。そのうちシューっとへこむと思うよ」
――魔法かよ。
「無理だろ」
このままでは果林のワンマンショーがいつまでも続いてしまう。いつでも離脱はできるだろうが、それではさすがに超幸運が気の毒だった。少年は箸を取ると、上の方でパリパリとしているまだ生の野菜を元のケースの中に戻し、鍋の大きさにふさわしい量まで減らしていった。はじめは不満そうだった果林も、ぱっと笑顔を浮かべている。
「わあ、すごい。もうすぐ食べられそうだよ?」
――規格外だな、こいつは。
四谷に目をやると、いつもの青白い顔に水滴がついている。死体が汗をかくとは思えないので、おそらく水蒸気がついてしまったのだろう。澄ました顔がしっとりしている様子はやけにおかしくて、想は思わず下を向いて笑った。
「ふわー、もう、おなかいっぱい!」
最初に全量投入された三重産の和牛はすべて二人の若者の胃の中に収められて、取り除かれた野菜は発泡スチロールの中でしょんぼりしている。
「四谷君、残念だったね、美味しかったよ? 国産和牛は」
「そうですね」
「そうだ、どこの人なの? アジア?」
「その通りです」
「かりん、外国の人といっぱい話したの初めてかも。ねえ、四谷君は、日本語上手なんだねえ」
澄ました顔で果林のボケにどこまでものっていく超幸運に、笑いを堪えきれずに少年は下を向いてプルプルと震えている。
「ねえねえ高田君、美味しかったでしょ?」
「俺?」
「うん。どうだった? 国産和牛は!」
確かに美味だった。しかし。
「高田じゃねえし……」
笑いを堪えながらなんとか顔をあげると、ピンク頭は困った様子で斜めに傾いていた。
「あれれ、かりん、君の名前知らない気がする」
「さっき自分でそう確認してたじゃんか」
「えー、大久保君だったっけ? 中野君だったっけ?」
このまま自分の名前がなにに落ち着くのか、見守りたい気もした。
しかし、脳裏に一瞬、寂しげにうつむく父の姿が思い起こされてきてしまって、それがどうにも振り払えない。
思いも寄らぬ会食に招かれたおかげで、カーテンの端から見える外の景色はもう真っ黒になっている。
携帯電話も持っていない自分を、両親はもしかしたら心配しているかもしれない。
多感な少年に突然もたらされた、新しい命の誕生の報告。もっと幼い子供なら、わあい、僕にも弟か妹ができるんだね! と受け止められるそれは、高校生にとっては生々しい「両親の夜の情事」の結果でしかない。そんなことまでわざわざ考えて、想はふうとため息をついた。
別に、両親に心配かけたくないなんて殊勝なことを考えているわけではない。ただ、今の両親の精神状態を想像してみたら、なんとなくいつもよりめんどくさい反応がありそうでそれがイヤだ――。
しょうがないからそろそろ帰ろうと決意して、想は口を開いた。
「諌山想だよ」
またコンビニで会う可能性は高い。自己紹介をしておけば、面倒くささも少しは減るだろう。そう考えてわざわざ名乗ったというのに、能天気なピンク頭の反応はこう。
「イサヤマソウ? それって、どういう草?」
――バカ。
「俺の名前だよ。苗字が諌山で、名前が、想」
「そうって、どういう字書くの?」
「想像の想だよ」
「ああ、つくるって読むやつね! へっへー、かりん、その漢字わかるよ!」
「違う。あとは四谷に聞いて。俺、帰るから」
冬の夜の訪れは早くて、窓の向こうに広がる闇だけでは時間がどれくらいかの判別は難しい。
超幸運の部屋には時計がない。やってきたのは三時を過ぎたくらいだったはずで、鍋パーティが始まったのは四時。かさの減らない鍋を見守って、それに片をつけて食べて……。今は大体、六時前くらいかとあたりをつける。
――夜飯にしちゃ、ちょっと早かったな。
上着を羽織り、一〇三号室のドアを出て、少年は軽くため息をついた。
道路の向かいに、暗黒のクリスマスイブ同様、父が息子の姿を求めてキョロキョロしているのが目に入ったからだ。
――しょうがねえなあ。
うんざりした気分になりながら足を踏み出そうとすると、背後でドアが開く音がした。
「そーちゃん!」
その大きな声が聞こえたらしく、父の注目が息子に向く。
あまり見られたくない、ピンク頭との絡み。
「そーちゃん、帰っちゃうの?」
その甘えるような声に、仕方なく想は振り返った。なんの用かはわからないが、さっさと決着をつけて帰りたい。
「そうだけど」
「……果林のお部屋に寄らなくていいの?」
「悪いけど後片付けは四谷とやってくれ」
「え? でも四谷君食べてないから」
「ちょっと急ぐからさ」
待っている父の元へ向かおうと振り返ると、いつかとおなじように腕にぎゅうっと、やわらかいものがしがみついてきた。少年は当然慌てて、振り払う。
「なんだよいきなり」
「ホントに来なくていいの?」
「どこにだよ? お前のとこ? なんで行く必要があるんだ」
ちょっと強めにこう答えると、果林は何故かモジモジと足を内股にして、とんでもない台詞を想に向けて放った。
「だって、おうちで一緒にご飯食べた後はエッチしないといけないんだよね?」
頭の中に、ごちゃっとした、黒や茶色で構成された思考のゴミが溢れていく。
苦い表情でしばらく立ち尽くし、なんとか脳内のゴミの山を端っこの方に片付けてから、少年は口を開いた。
「誰がお前にそう言ったんだよ」
「テツオ君」
大きなため息を吐き出されて、二人の間に白いもやがふわあっと広がっていく。
その向こうに見える果林の顔がムーディかというと、違う。
「お前、騙されてるぞ。別にしないといけないなんて決まりはねえから」
「……四谷君も?」
「当たり前だ」
つい先ほど交わした謎の会話の正体が、ここでわかった。「一緒に食べた相手と」という条件ならば、厳密には四谷には適用されない。
あまりにもアホすぎる目の前の女子に悲しい気分になって、つい、想は声を荒げた。
「っていうか、お前がイヤなら、相手がなに言ったって関係ないんだぜ? もうちょっと自分のこと大事にしたら? そんな風に自分から切り出すなんて、安売りしすぎもいいとこだろ」
じゃあなと手を振り、また振り返る。父がじっとこちらを見ていて、至極めんどくさい気分で足を踏み出す。
と思ったのに、またまた腕にぎゅうっと、しがみつかれてしまった。
「なんだよ!」
さすがにそろそろしつこくて、大きな声が出てしまう。
目の前にぱあっと咲いたのは、適当に書いた落書きの花のような、力の抜けた、しかしやたらと幸せそうな笑顔。
「見つけた!!」
果林がふにゃふにゃなスマイルを浮かべたまま叫ぶと、世界は突然、暗闇に包まれた。