02 超幸運が叶える願いに適用されるルールについて
教室にいたはずだった。
一時間目の古文の授業が始まっていて、特に熱心に聞いていなかったが、クソババアと生徒達が堂々と呼んでいる平河教諭の間延びした声が響いていたはずだった。
しかし今、世界は暗闇に包まれている。
異常事態に思わず立ち上がってしまった想と、目の前にいる四谷司以外にはなにもいない。
きょろきょろとあたりを見回し、上も下もひたすら真っ黒の世界を確認してから、少年は仕方なく目の前の級友に話しかけた。
「なんだ、これ」
「当選のお知らせだ。諌山想、君に今日、超幸運がもたらされた。おめでとう」
――超幸運?
眉間に思いっきり皺を寄せて、想は四谷をじろりと睨んだ。
「なに言ってんだ、お前?」
「真実を述べただけだ。私は超幸運。所定のキーワードを決められた条件で言うことによって得られる、地球から人類への贈り物だ」
――危ないヤツなんだろうか。
想はこの四谷司というクラスメイトについて、なにも知らない。
色白の肌に、切れ長の目。サラサラとした髪が肩までまっすぐに伸びていて、どこか影のある、見た目は良いが近寄りがたい雰囲気の少年だ。
これは今、必要にかられてじっくりと見て得た感想で、今まではそういう名前の男子生徒がクラスにいる程度の認識しかなかった。
「危ないヤツではない。私が述べるのはすべて、真実のみ。お前は所定のキーワードを決められた条件で言った」
「所定のキーワード?」
「『ちょっと頑張れ』だ」
――意味がわからない。その程度の言葉なら、そこらじゅうで言われているだろうに。
「このキーワードを、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、かつ私の耳に聞こえるように言う。それが今回の当選の条件だった」
「大丈夫か、お前」
「危ないヤツではないと言っている。私がただ単に頭がおかしいだけの人間だったとしたら、この暗闇はなんだと思う?」
確かに今、自分がいる場所の異常さについてだけは、説明できそうにない。
――たとえば、突然死んでしまえばこんなシチュエーションもあるかもしれない。
想は考えたが、死後の世界なんてものを持ち出すのと、目の前の男の言葉を信じること。
どちらも同じくらい、どうしようもなく胡散臭い。
「死んだ後にはなにもない。ただ、終わるだけだ」
四谷の言葉に、少年は眉をひそめている。
――さっきから、考えていることへの返答が続いている?
「わかってくれたようだな。では、説明をしよう。超幸運について」
想は顔をしかめて少し考えたが、このままでは埒があかない気がして、おとなしく「説明」を聞こうと決めた。
「超幸運は、当選した人間の願いをすべて叶える。これから先、諌山想が望み、私に伝えた願いはすべて叶えられる」
「すべて?」
「すべてだ」
「例えば寿命が半分になるとか、悪い条件がついてんじゃないの?」
「当選した者は大抵そういった代償が必要ではないかと考えるようだが、その心配はいらない。望みはすべて叶う。代償はなく、期限もない。人生が終わるその時まで、超幸運との契約は続く」
――夢でも見てるのかもしれないな。
「夢ではない。説明にはそれなりの時間がかかるので、こうして人の邪魔が入らないところに来ている」
「……ここってどこなんだ?」
「どこ、という表現はできない。特別な時間を過ごしてもらっている」
――わかんねえ。考えるだけ、無駄かも?
「その通り。考えても理解はできない。さて、願いを叶えるにはルールがあるのでそちらを覚えてもらおう」
「ルール?」
「そうだ。代償はいらないが、願いを叶えるにはルールがあるので、それを守ってもらわないとならない」
――じゃあ、すべてっていうのはウソじゃないか。
「そうだな。言い直そう。ルールに乗っ取った願いはすべて叶えられる。ではルールを教えよう」
四谷はなんの表情もなく話し続けていて、まるで生気が感じられず、じっと見つめているとなんとなく、人間ではないなにかのように感じられるような気がしないでもない。
と、想は考える。
「まず一つ目だが、物理的に不可能なことはできない」
「どういう意味?」
「瞬間移動しろとか、空を飛びたいとか、物理的な法則を無視した行いはできない」
――早速ロマンがねえ!
そんな願望を持ったことがないのに、想は心の中でこんな悪態をついている。
「もう一つ、人間の記憶の改竄、もしくは心理の勝手な操作はできない」
「どういう意味? 具体的に」
「例えば昨日まで忌み嫌っていた誰かを、無条件に愛するようにさせたりはできない」
「ふうん。それだけ?」
――物理的に不可能なことと、他人の心の操作はできない、か。
「そうだ」
想は首を傾げて、頭の中でシミュレーションをし始めていた。
例えば、大金が欲しいと願えばそれは叶うのか?
「叶う。その場合、いくらなのか、そしていつまでにいるのかという指定が必要になる」
「お前さ、勝手に頭の中で考えてることに答えるのはやめてくれないか?」
「ならば口に出した質問だけに答えるようにしよう」
――人の心の中が本当に見えるのか……。
こう考えて想はちらりと四谷に目をやったが、今度はじっと黙ったまま微動だにしない。
「金額の指定とか、いつまでにいるとか全部考えないといけないの?」
「そうだ。たとえば、一億円欲しいとお前が言ったとしよう。その場合、期限がなくてもいいならば私はお前以外の誰かが困ることのない金を地道に集め、十五年程度の時間をかけて願いを叶えることになる」
「なんだそれ。地道にってなんだよ。意外だわ。銀行とかから持って来いよ」
「銀行から金を動かせば、大事件になる。一円だってなくなれば大騒ぎになる場所だ。われわれは超幸運の当選者のために力を貸すが、それ以外の人間に大きな不幸を負わせはしない」
「じゃあ、そこらじゅうの人の財布から十円ずつくらい持って来るとか、そういうセコい真似をするわけ?」
「そうだ。財布からは取らないが、落ちている硬貨などを集めていく」
札束の落とし物はおそらく稀なので、もし一億円分硬貨を集められたら……と考えると、ため息が出てしまう。
「そして一つの願いを叶えている間は、次の願いに取り掛かることはできない。もし望みが叶うまでに時間がかかる場合は、次の願いの成就まで、長い間待たなければならないだろう」
――細かい。案外細かい。
少年は少し考え、顔をぷいっと横にそむけてまた眉間に皺を寄せた。
いや、それ以前に、このくだらなく非現実的な話を信じるのかどうか。
確かにこの真っ黒な空間は現実のものとは思えないが、「超幸運」だなんてトンデモ話を信じていいのかがわからない。
「もう契約は始まっている。手始めに、簡単な願いを言ってみればこれが現実だとわかるだろう」
「勝手に答えるなって言わなかったか?」
「これは提案だ。誰もが最初は信じない。今の諌山想のように」
「人のこといちいちフルネームで呼ぶのはやめろ」
「その願いを叶えよう。では、どう呼ぶのか決めてくれ」
――げっ。
「これって願いが叶う扱い? どういう処理されんの?」
「今のこの瞬間以降、諌山想を本人が希望するとおりの呼び名で呼ぶ」
――普通! かつ、大げさ!
「じゃあイサでいいよ。ついでにそのおかしな口調はやめてくれ。普通に頼む」
「これが私の普通だ、イサ」
「もっとくだけろよ」
「今はイサと呼ぶ願いを叶えている最中だ。もう一つの願いを並行して叶えることはできない」
「はあ? じゃあ、イサって呼ばれている間はもう願いは叶わないのか?」
「そうだ」
「じゃあやめやめ! キャンセルって自由?」
「もちろん。やめるのか?」
「当たり前だろ! くだらねえ、お前からあだ名もどきで呼ばれるだけのために俺、なにやってんだよって話になるじゃねえか」
「まったくだ」
――結局なんの証明にもなってねえ。
しかし、他に手軽で、超幸運とやらが本当なのか証明できる願いは思いつきそうにない。
少年は両手を腰に当てたポーズでふうっとため息をつくと、自分の足を見つめたままこう話した。
「もういいよ。この訳のわからない空間から早く出してくれ」
「わかった。ここは最初の説明のために私が勝手にお前を連れてきた場所だ。ここから戻るのは、願いには含まれない」
――当たり前だっ!
気がつくと、想は自分の席にいつも通りだらんと座っていた。
クソババアののんびりとした声が教室に響いて、多くの生徒にあくびをさせている。
想はキョロキョロと視線を動かし、斜め右方向、少し前にその姿を確認した。
――あいつが、本当に、俺の願いをすべて叶える?
長いサラサラとした髪が流れて、その横顔を半分隠している。四谷司、超幸運と名乗る男。
――わからない。
少年は一時間目の授業を教科書も開きもせずに、ずっと、じっと、半信半疑のまま過ごした。