01 少年、諌山想について
夕暮れの光が差し込む教室、自分の席にじっと座り、少年はただひたすら遠くを見ていた。
空に浮かぶ雲はほとんどなく、薄くなった水色と橙の混じったおかしなカラーに変わっていく窓の枠の中。
面白くも寂しくもない、なんでもない風景に目を向けたまま、彼の口からため息がひとつ漏れ出ていく。
帰らなくてはならない。
仕方なく立ち上がり階段を降りて下駄箱へ向かうと、何人かの男子生徒が立っている。
「イサ、今帰りか?」
声をかけられたというのにロクな返事もしないで、イサと呼ばれた少年――諌山想は、脱いだ上履きを自分のスペースに突っ込むとかかとの潰れたスニーカーをポイと下に投げ、表情のない顔でそれに足を入れた。
「おい、無視すんなよ」
「いつものことだろ、ほっとけよそんなヤツ」
クラスメイトたちは会話をそこで切り上げると、さっさと校門へ向かって歩いていってしまった。
少年はそれを黙ったまま見送り、しばしそこに立ち尽くす。
あの集団に追いつくのが嫌だったからだ。
たっぷり十分程経ってから、想は歩き出した。
他に行く場所がないから、彼は家に帰る。
その家にも、想には喜びがなかった。
帰れば誰もいない家で一人で食事をし、シャワーを浴びて汗を流し、なんとなくインターネットに繋がってどうでもいい情報を取り込み、あとは眠るだけ。
父と母も帰宅してくるが、彼らに話すこともないし、わざわざ「おかえりなさい」なんて声をかけにいく気もない。両親のどちらも、どうしても必要なこと以外に話をしたい相手ではないから。
家にたどり着き、いつもどおり自分で鍵を開けて中に入る。誰もいない静かな部屋。制服から着替え、ソファに座ってリモコンを取り上げる。
夕方のニュースでは、今日も日本のあちこちで起きた陰惨な事件や、政治家の無能ぶりを取り上げ、それが済めば急に祭りのような雰囲気でどうでもいいタレントのどうでもいいスキャンダルを垂れ流しにしている。その後はお決まりの、巷で噂のグルメとやらの話だ。
どの局にまわしても同じような構成でやっているニュースが終わって、少年は立ち上がった。
本日の夕食は、レンジで温めるタイプのパスタ。それに、野菜のサラダがついている。
コンビニエンスストアで買ってきた弁当に貼られたシールには、原材料として見覚えのないカタカナがぞろぞろと並べられている。
正体はわからないが、そんなのはもう当たり前だ。そしてなんだかわからないものでも味はいい。仕事のない日に母親が張り切って作る食事なんかよりずっとマシだった。愛情なんてロクでもないものが入ってない分、ずっといい。
シールに書かれた時間の目安どおりに電子レンジを動かして、薄暗い食卓で一人、想は食事を済ませた。野菜のサラダは気に入らないので半分以上残している。あとで母が文句を言ってくるだろうが、そんなのは関係ない。野菜さえ食べれば体にいいなんて本気で思っているのか、小言を並べる顔を見ながら少年はいつも考える。それが母と息子の唯一のコミュニケーションで、黙って文句を言われるのが野菜サラダを出された日の「こどもの義務」だった。
自分の部屋のパソコンを立ち上げ、右手で気になるトピックを選び、ぼんやりと画面を見つめ続ける。そのうちに母が、その後に父が帰ってきたようだが、どうでもいい。
いつも見ているまとめサイトにも今日は特に面白いものはなく、少年はベッドに体を投げ出した。
父と母が必死になって返している住宅ローンのおかげで与えられている自分の部屋。
たいして広くもない3LDKのマンションの中の、六畳弱の洋室。
じっと目を閉じると、遠くから虫の鳴く声が聞こえてくる。
だけどそれも、想にとってはただの音でしかない。
どうしてこんなにも心が動かなくなってしまったのか。
少し前までは考えていたはずなのに。
今ではもう、少年の中にそんな疑問は残っていない。
朝起きれば、身支度を整えて学校へと向かう。
他に行く場所がないし、行かなければ両親がうるさい。
単純にそれがうっとおしくてたまらないので、想はだらだらと高校への道を歩く。
「おい、イサ!」
昨日もちょっかいをかけてきた、仲島廉の大声が教室中に響く。
「イサ、聞こえてるんだろ? 返事くらいしろよ」
「なんだよ」
少年は仲島が苦手だった。目立つのが好きで、なにかと声をかけ、ちょっかいを出してくる。
仲島は誰にでも声をかけ、くだらない自分の話を聞かせては反応を得るのが趣味らしかった。
自分で自分のことを面白いと勘違いしている、迷惑なヤツ。
しつこいほどの語り掛けにクラスの誰もが仕方なく笑顔を浮かべたりなんとなく褒めたりする中、想だけが無反応なことが不満らしく、最近では一日に数回必ず話しかけられるようになっていた。
「昨日のアレ、見た? クラブ・スマイラーズ」
「見てない」
最近人気だというコント番組の名前だということは知っているが、大して面白くはない。一度だけ偶然放送を見ただけだが、少年はそう判断している。
「なんだよ、見てないの? 面白いのに。お前くらいだよ、見てないのは。なあ!」
仲島は大げさな動きで級友達におどけた笑顔で問いかけている。それに、何人かがああ、と曖昧に頷き、自称クラスの人気者は満足そうにうんうんと頷いている。
「面白かったんだぜ。なんだっけ、そうだ、ケンジとユカのコントがさ」
昨日の夜の放送で仲島的に一番面白かったというコントの再現が始まる。もちろん、劣化コピーが本家を超えることなどなく、痛々しさ以外に感じるものなどない。
想のからっぽの視線に気がついて、仲島は口の動きを止めた。
そして大きく舌打ちをすると、少年にこう言い放った。
「お前、なにが楽しくて生きてるの?」
――本当だな。
想がふっと笑うと、仲島は気持ち悪そうに顔を歪めて、自分の席に戻っていった。
諌山想。
県立録戸高校の一年生で、十六歳になったばかり。
勉学にも、スポーツにも興味がない。打ち込んでいる趣味もない。
ただひたすら時を無駄に浪費しているだけの、無気力な少年だった。
どうしてなんに対しても興味がないのか、どうしてこんなに人生を虚しく感じているのか、本人にもわからない。
事情を知っている人間なら、「愛情不足」と言うだろう。
幼い頃からずっと、彼は一人だった。両親は育児よりも仕事を優先させ、それぞれ個人の人生の方に重きを置いている。その代償に、息子がからっぽになってしまったのだと。
しかし、少年はそんなことは思っていない。
両親の期待に添えないのは申し訳ないが、どうにもやる気が起きないのだから仕方がない。
自分はもう諦めたのだから、両親にも諦めてもらうしかない。それくらいにしか思っていない。
そして人生は虚しくて、これから先の未来に関してもなんの希望をもっていないが、たとえば自ら命を絶とうとか、もうやめようとか、そういうことも考えてはいなかった。
そこまでの情熱が、彼にはない。
だから、ただ、生きているのだ。
――なにが楽しくて生きてるの、か。
クラスメイトから投げかけられた辛辣な言葉が頭の中に残って、想は少しだけ脳を働かせた。
――楽しくなきゃ生きてたらいけないのか。
そんなことはないはずだ。国民の誰もが、生きる権利を保障されている。楽しくなかろうが、幸せじゃなかろうが、ただのうんこ製造マシーンと化していようが、生きていていいはずだ。
――くだらない。
自分の思考に顔を歪め、想はため息をついた。
彼はもう気が付いている。このまま、ただ生きていくのは難しい。
今は学生という身分に守られていて、それほど熱心に勉学に打ち込まずにいても、なんとか潜り込める場所があった。しかしこれからはそうはいかない。いつまでも学生ではいられない。養ってくれる親が永遠にいるわけではない。
その先を想像するのは、やはり面倒なことだった。
しかしうかうかしていれば、その時はきっとすぐに来る。
決断の瞬間。人生をどうするのか、立ち上がって決めなくてはいけない、その時。
その時が来るのが怖い。想の中にひとつだけある強い感情がこれだ。
億劫さと、恐怖。時折この二つは戦いをはじめ、少年の心を震わせてはいつも引き分けで勝負を終える。
少年は思わず窓の外を見つめた。
秋の気配が漂い始めた景色。太陽が出て明るいが、どこか寂しげな光。
夏の間、容赦なく照りつける日差しを疎ましく思っていたが、九月に入ってからは秋になったんだからとコロリと態度を変え、とたんに弱々しくなった太陽にガッカリした気分になってしまう。暑い日差しにはエネルギーが満ちていた。それを、季節が変わったんだからと弱める根性なしに腹が立って、想はこう呟いた。
「もうちょっと頑張れよ」
ふっと、影が落ちる。
視線をまっすぐ前に戻すと、すぐ目の前に誰かわからないが男子生徒が立っていた。授業中だというのに、堂々と。その非常識な生徒が誰なのか、少年は顔をあげて確認していく。
言葉を交わしたことのない級友、名前は確か……、四谷司。
「おめでとう。君は選ばれた」
世界は突然、暗闇に包まれた。