第二話<Ⅰ>
トリスが旅に出たのは、約5年前。
幼い頃から、ひとつだけ絶対に信じていたことがあった。
「家族は死ぬまで一緒にいる」…
その夢想が覆されたのは、7年前のとある冬の日。
あの日も、今日のように雪が降っていた。
オーフスは、コペンハーゲンに続くデンマーク第二の都市である。現在人口は約29万人。
トリスは、そこに母と二人で住んでいた。
「トリスー?」
台所から声がする。
庭で草をむしっていたトリスは、急いで近くの井戸で手を洗って家に戻った。
当時トリスは12歳。
そして、来週13歳の誕生日を迎える。
トリスの家では誕生日がすごく派手だ。
親戚全員を呼んで、パーティーを開いて、盛大に生誕を祝う。
「何ーお母さーん?」
「これ、晩御飯できたからテーブルに運んでちょうだい」
「はーい」
この頃のトリスは、食べ盛りが過ぎたせいか少し太り気味だった。
身長がそこそこ高いので何とか違和感は無いが、近所の人間からはよくごついごついといわれていた。
しかしトリス自身、好きなものをたらふく食べての幸せ太りなので、そんなことは気にしない。
「わあ、シチューだ」
今日の献立は、トリスの大好きな角豚肉のシチューに街角の出店で買った魚のパイ。
飲み物はザクロとクロイチゴを使った果汁。デザートにはとダリオールよいうアーモンドクリームを詰
めた折りパイ生地を小さな型に入れて焼いた菓子がある。
当時のヨーロッパでは衛生上の懸念や医師の助言、飲み物の中で相対的に低い位置づけにより水はあま
り好まれず、むしろアルコール飲料が好まれた。
しかしトリスはアルコールが飲める年ではないので、母が絞ってくれる果汁をいつも飲んでいる。
パイは、イチジク・干しブドウ・リンゴ・ナシ・インシチチアスモモと子タラがパイ皮の中で渾然としている。
「じゃあいただきまーす」
胸の前で十字をきって手を合わせから、スプーンを手にする。
美味しそうに料理をほおばる彼女を見ながら、母も食事を始めた。
「そういえばお母さん、どうして今日はこんなに献立が豪華なの?いつもならパンと果汁とサラダだけなのに」
トリスがなんとなく聞いた瞬間、母の顔が少し引きつった気がした。
「?…お母さん…?」
「トリス、あなた来週誕生日でしょ?だからそれまでカウントダウンとして作ろうかなって」
「じゃあ、誕生日まで毎日この料理なの?」
「ええ」
「やったあ、ありがとうお母さん!」
「当日はもっと豪華な料理にしなくちゃね」
幸せそうに料理を食べ続けるトリス。
しかし母のスプーンを持つ手は止まり、表情もあまり晴れない。
まあ何かあって一時的なものだろう、とそのときは思っていた。
日が経つにつれ、母の行動がおかしくなっていった。
いきなり何かを考えるように黙り込んだり、ふとしたことですぐに落ち込む。
今日も家事をする以外は部屋にほとんどこもっていた。
しかし、料理はきちんと作ってくれた。
毎日具材を変え、飽きないように味付けも変えてくれた。
いつも通りに対応は優しく穏やかだ。
…いや、いつもより、優しすぎる気がする。
悪く言えば気持ち悪いぐらいにだ。
「どうしたんだろうお母さん…」
一人で呟きながら庭の草むしりをする。
母の変化が始まったのが最近いきなりなので、トリス自身、彼女が大丈夫なのか不安だ。
「うーん…何だろうな……野菜は上手に育ってるし…家畜たちも問題ないし…」
ただ目の前に広がる雑草を一心にむしりながら呟く。
…と、
「何を一人で呟いてるんですかー?」
自分の頭上で声がした。
振り向くと、見知った顔が覗きこんでいた。
「モニカ姉さん…」
近所に住んでいる15歳の親友、モニカ・ウィッティンだ。
兄弟がいないトリスにとって、姉のような存在である。
モニカの家は宗教上の問題でかなり規律が厳しいため、年下でも敬語を使わなければならない。
だから、小さいころからトリスと喋る時も敬語だ。
「あ、うん…お母さんがね、最近変なんだ…」
「お母様が?」
「うん。なんていうか…こう、優しくなったというか…」
「あなたのお母様はいつも優しいでしょ?」
「あ、いや、そういうことじゃなくて…変に優しすぎるんだ」
「変に優しすぎる?」
「うん…」
俯きながらトリスがうなずく。
するとモニカはうーんと一回唸って
「…何か隠していらっしゃるのかしら」
「え?」
トリスが顔を上げる。
「何か隠そうとすると人って不自然に優しくなりません?」
「隠し事…」
母が隠し事…
そんなこと、今まで一度もなかった…
確信はないが、モニカの仮定が本当ならば、説明がつく。