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その夜の名

作者: 蒲公英

 夜半、何者かに呼びかけられて目を開ける。暗い部屋の中で目を凝らしても姿は見えない。ふと記憶の舌が唇をなぞるのを感じて、受け入れようと薄く口を開く。記憶の指が胸をまさぐって、指の感触を残したまま闇に溶ける。

 誰の舌で誰の指なのか。自らに問いかけても、返事はない。

 

 誰もいない部屋で、空に向かって問いかける。

 ―――あなたは、誰ですか?

 

 男は、夫しか知らない。だから他の舌や他の指である筈がないのに、夫ではない。正確には夫であるはずがない。もうずいぶん前から生活を共にはしていないし、来週には書類上も他人になる。

 

 知っているのだ、あの舌を、あの指を。

 焦がれる程強くはなく、何かを望んでいるわけでもないのに、リアルな感触だけが唇や胸に残る。節の高い、けれど細い指を目の奥に浮かべることさえできる。

 ―――あなたは、誰ですか?

 

 ************************************************

 

 離婚が成立しそうだと話した時に、子供がいなくて良かったねと言ったのは誰だっただろうか。それが原因だったのに。私には子供ができずに、彼女にはできたということ。結婚して何年目かから夫の後ろには女の影が見えて、見ない振りをすることに疲れてもいた。社会に出て間もないうちに5歳上の夫と結婚し、のんびりした会社だったので辞めもせずに勤め続けた。一度初期流産を体験して、妊娠しない身体ではないと思っていたのだが、その後一向に妊娠する気配はなかった。不自然な治療はせずに、ふたりの生活を楽しもうと言った夫は、あの頃にはもう離婚を考えていたのだろう。

 

 彼にしがみつく力は、なかった。どうでもいい、このままでも離婚しても、どちらでも良いと思う程度で、ただ継続できなかった結婚生活に敗北感を抱いているだけだ。慰謝料代わりに夫の両親が買ったこの中古マンションを譲り受けた。

 ここに、ただいまと言って帰ってくる人はいない。テレビをつける習慣のない私の、生活の音だけが部屋の中に響く。

 成立してしまうまでは、離婚のことを考えていれば良かった。これから先、私は何を思いながら生活してゆくのだろう。



 誰も帰ってこないのだ、ひとりなのだと思うと、部屋を掃除する意味を見失った。キッチンのシンクには洗い物が重ねられ、その中から使うものを選び出して洗う。部屋の隅に埃が舞い、玄関には脱いだ靴が何足も並ぶ。寝具のシーツには皺が寄り、毛布は朝にはねのけた形のまま落ちている。

 それを認めるのは私だけなのだ。今までも夫は帰っていなかったのに、いつか戻ると思っていたのだろうか。

 そんな訳はない、戻るなんて思ってもいなかった。だから、離婚届一枚で喪失したものはない筈だ。もう失くしてしまっていたものに、名前をつけただけなのだから。

 

 勤務先では、総務に書類を提出しただけだった。旧姓のままで仕事をしていたので、差し支えはまるでない。バツイチだからさ、なんてさらっと言う友人もいたが、私にはそんな風にあっさりとは言えない。

 指輪は、何年も前からしていない。誰も気がつかない。それでいい。原因を聞かれることも、見当違いの同情を向けられることも真平だ。

 

 眠るために灯りを落とし、ベッドに身体を横たえる。浅い眠りの中に訪れる記憶の指を待ち、それが肌をまさぐる感触に溜息をつく。耳元で囁かれる意味の読み取れない言葉は、低いかすれた懐かしい声だ。

 ―――あなたは、誰ですか?

 誰でもある筈はないのだ。記憶にすら相手がある筈はない。私の肌に触れた唯一の男は、他人になった。

 ―――あなたは、誰ですか?

 

 道端で鳴いていた黒い仔猫を家に連れて帰った。

 おまえもひとり?そう聞くと、ぴゃあ、とか細い声で返事をした。猫など好きではなかったのに、何故連れ帰る気になったのだろう。私は道端に捨てられた仔猫ではないのだ。ひとりであることを自分で選んだわけではないのだけれども、道端に放り投げられたりはしていない。黒い身体に白い点が小さくひとつあるその猫に「ヨル」と名付けた。

 ヨルは、私のベッドに丸くなって眠る。世界の始まりと終わりを内包しているような姿勢だと思う。始まりも終わりも見たことはないけれど。


 携帯電話が震える。発信者の名前を見て、放っておくことにする。バツイチ同士になったわね、せっかく解放されたんだから大いに楽しまなくちゃ。その言葉はあまりにも無作法だ。

 彼女は離婚が喜ばしいことであるかのように言う。それでは添い遂げた夫婦は祝うべき対象ではないということか。

 ――嘘だ、彼女がそう思ってなどいないことは知っているではないか。

 僻んでいるのは私のほうで、同病の憐れみを受けたように感じているのだ。ヨルが膝の上で伸びをする。

 

 離婚したらしいじゃないの、寂しいんじゃない?自分で吹聴しなくても、会社という村社会の中では噂はすぐに広がる。横に座った男の手は、幼児のように丸くて白い。その指が膝を這い、寂しいんでしょう?と繰り返して耳元で囁かれる。男はもう要らないと思っていたわけでもなかったが、男が欲しいと思っていたわけでもない。それなのに、肩を引き寄せる手を振り払わなかったのは何故だろう。

 自暴自棄になっていたつもりはなく、強いて言えばひどく億劫だったのだ。

 

 男に身を任せてしまうのは驚くほど簡単で、驚くほど退屈だった。私の裸体を綺麗だねと褒められても、嬉しくはなかったし、逆に男のたるんだ筋肉に嫌悪感を抱いたわけでもない。欲望もなければ歓びもなく、相手に抱く感情もなく、ただ行為だけがあった。

 カンジタデショウ?ヨクナカッタ?

 下世話な言葉は耳の横を吹きぬける風ほどの価値はない。何もかもが現実から一歩離れて見える。

 

 ヨルはひどく気まぐれに、足元にすり寄る日とまるで寄り付かない日がある。自分の感情を自分で決めるのは、果たして自由なことなのか。

 ――自分の感情まで他人の思惑で決めようなんて、それは普通じゃない。

 麻痺したまま、動き出すのを待てば良いのだろうか。身体を動かせば、心も動くのか。

 心が動くから身体を動かす気になるのか。散乱した部屋の中で朽ちてゆく幻想を見る。



 驚いた、他人の言葉に微笑んで頷いているのは私じゃないの。無意識にこんなことができるほど器用だとは思っていなかった。

 痩せたんじゃない?ええ、ダイエットの成果が出たでしょう?自分の口からすらすらと出る他人の言葉。仕事も滞らせずにちゃんと流しているらしい。あとで思い返しても、何を話し何を見たのか覚えていないのに。

 

 丸い手の持ち主とは、何度か行為があった。私は何もしなかった。ただ肉が触れるだけのことに意味などはない。男の手が熱かったのか冷たかったのか、離れると同時に思い出せなかったし、実際、それは本当にどうでもいいことだ。

 自分に留めて置きたい記憶ならば、意識しなくても手放したりしない。男の声で耳に残ったのは、ひとつきり。

 ―――ツマラナイ オンナダナ、ダカラ オトコニ ニゲラレルンダ。

 夫も私をつまらない女だと思っていたのだろうか。そして他の女を選んだのではなく、私から逃げたというのか。

 

 記憶の指は夜毎に現れる。細く節の高い指は、慣れた手つきで私の身体を探り、舌を首筋に這わす。

 ―――あなたは、誰ですか?

 実体の無いものに話しかけても返事はない。ヨルが隣で丸くなっているのを確認しながら胸の上で指を組む。あれは、私が呼んでいるのか。ゴミ箱からあふれて散ったゴミを蹴り、脱ぎ散らした服を踏みながらベッドに辿り着き、目を閉じて訪れを待つ。男が欲しいわけではない。訪れを、ただ待つ。

 

 酷く怠惰な生活の中でヨルだけが色を持ち、私の前を動き回る。腹が減ればぴゃあと鳴いて、皿を前足でカタカタと揺らして見せる。部屋の中しか知らぬヨルと、外をうろつく野良猫のどちらが幸福か、私は知らない。三ヶ月、カーテンを開けていない。

 開けていなくても、窓はそこにある。



 ぎゃああ、とヨルが叫ぶ。知らないうちに季節はふたつも過ぎていたらしい。ヨルは気がつくと仔猫でなくなっていた。

 繁殖する力を誇示するように、ヨルは夜通し叫ぶ。避妊手術をしなくてはと、ぼんやり思う。

 

 予約を入れ、ケージをしっかりと抱えて獣医に向かう。受付で名前を書き、小さな診察室に導かれる。獣医は事務的にカルテを持ち出す。

 ―――ヨルを石女にしてしまう権利が私にあるのだろうか。子供を宿すことすらできなかった私に!

 獣医の腕からヨルを抱き取り、気がつくと私は泣いていた。

 

 そうだ。大声を上げて泣いていたのだ。

 獣医の驚いた顔、腕の中で暴れるヨル。何故こんなにも感情が揺れるのか。

 

 ―――落ち着いて、ここに座ってください。

 低くかすれた声は、懐かしかった。

 ―――飼い主さんの意に染まないことはしません。ただ、手術によってこの子は呪縛から自由になるのですよ。

 呪縛、私は言葉を反復した。

 ―――種の繁栄の呪縛。

 それが正しいものかどうか、私にはわからない。肩に置かれた指は細く節が高かった。

 

 私はこの指を知っている。この指が私を知らなくても。


 ヨルを獣医に任せた夜、記憶の指は現れず、その代わりのように肩に置かれた指を夢想した。あの指は生きている指だった。あの声は人間の唇から発した声だった。

 それに触れたい。

 欲情であり、飢餓であり、夜通しの焦がれるような渇望だった。

 

 翌夕指定された時間に獣医に訪れると、ヨルは弱弱しく横たわっていた。

 ―――神経質な子ですね。消毒したくても触らせないんです。ちょっと抱いていていただけますか。

 ヨルを受け取る時に、獣医の指が胸に触れた。


 それが欲しい。もっと近くに欲しい。


 私は獣臭い診療室の中で獣医を誘惑した。自分がこんなことをできるのか、という驚きと共に。けれどそれは、とても簡単なことでもあった。

 

 ―――診療室でこんなことをしたのははじめてだ。先に言っておくけど、僕には家庭がありますよ。

 私が着衣を整える間、獣医は黙ってそれを見ていた。彼に家庭があろうが、そんなことに興味はない。

 いいえ、もともと彼自身にも興味がない。そして不思議なことに、渇望した指にすら興味はなくなっていた。

 手術の礼をして、ケージにヨルを入れて診療所を出た。


 

 見上げると空には、ヨルの爪よりも尚細い月があった。そうか、天井の上に空があったのか。家に帰ったらカーテンを開けて、ヨルを抱いてベランダに出よう。

 

 私の生活に色が戻ってきたのを確認しながら、ケージを抱いてタクシーに乗る。あの指は、きっともう現れない。

 あれの名前を今、私は言い当てることができる。

 

 その夜の名は「虚無」と言う。

 

 fin.





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