8、証拠
アーラは王子に語って聞かせた。
一人の娘が時空のはざまを落ちて、生まれた世と異なる世界へ転げ出てしまった物語りを。
「これは、作り物語りではございません。実際にありました話でございます。そして……私の身に振りかかった出来事なのです」
アーラが正直に告白しても、王子の表情は変わらなかった。
「奇想天外だな。先ほどの話といい今のといい、おまえの物語りは興味深く、おもしろい。何も卑下する必要はないんだ、金貨を受け取ればよかっただろう」
口調も変わらない。
――やっぱり、ね。
簡単に信じてもらえるなどと思ってはいない。身をもって体験している当人のアーラでさえ、途方もない話だと思うのだ。
王子は深青の目をまたたいて、改めてアーラを見返した。
「ところでそろそろ家名を教えてもらおうか。気を逸らそうと新たに物語りをするほどにもったいぶるからには、たいそうな出自なのだろうな?」
王子のおだやかだった声が探るように低くなった。背の産毛が逆立ち、アーラはあわててかぶりをふる。
――怪しまれている。
王子の目がすうと細められた。
「それとも、名乗れないだけの理由があるのか。後ろめたい理由が?」
「いいえ! それはちがいます。命をかけてもお約束できます」
「軽々しく命をかけるものではないぞ。おまえが他国の間諜ならなおさらだ」
「間諜ではございません。ですから、お心のすむようになさってくださればけっこうです。私は、大恩ある春の芽吹き亭のご主人夫妻にご迷惑がかかるくらいなら死を選びます」
これはアーラの本心だった。
もちろん、死ぬのは怖い。だが、
――こちらの世界で死んだら、〝あちら〟に戻ることができるかもしれない。
そんなおろかな希望もあったのだ。
グランヴィールに来て一年。帰る方法こそ見つかっていないが、自分は、本当に運がよかったのだ。
こちらの文字は読めなかったが、こちらの言葉は最初から話せた。親切なご主人夫妻に住み込みで働かせてもらえた。衛生状態も治安も現代日本と同じとまでは行かないが、近代的で明るく、住み心地は悪くなかった。
けれどもアーラは、もとよりここには存在しないはずの人間なのだ。身元を証明したくともするすべがない。〝あちら〟の運転免許証も保険証も住民票も手もとになく、仮にあったとしても何の役にも立たないのだ。
アーラはまっすぐに王子の目を見返した。不敬かもしれないなどと気にしている場合ではない。目をそらしたらむしろ後ろ暗いものを抱えていると勘繰られるだろう。
王子は冷たい冬の海色になったまなざしでアーラを検分していたが、
「ではこうしよう」
そうつぶやいて、書斎机のへりをたたいた。
「おまえはたしかに異世に伝わるという原初の物語りをしてくれた。俺がおまえの素性を怪しむよりも前に、だ。間諜であれば異世や外つ国といったものに関わることがらは極力避けるだろう」
「では、」
信じてくださるのですかと続けるよりまえに、アーラは王子に制された。
王子は獲物を追いつめる狼のようにゆったりした足並みでアーラの周囲を歩きながら、続けた。
「俺も立場上安易に信じるわけにもいかない。おまえの特異な身の上をこちらに信用させるには、それなりの証拠が必要だな」
「何であれば証拠とお認めいただけますか」
王子はアーラの正面で歩みを止め、アーラの視線を受け止めた。
「おまえは何であれば証拠として出せる?」
「春の芽吹き亭で寝泊りさせていただいている部屋に、私の世界の物語を書きとめた帳面があります。十冊ほど。私は一年間学んでいますが、まだグランヴィールの文字を自由に操ることはできません。ですから、私が故郷の世界でもとより使っていた文字で書いてあります。それでは証拠にはなりませんか?」
王子はあごをさすって、考え深く答えた。
「見てみないことには何とも言えない。だが、おまえが仮に間諜ならそれらは重要な押収品になるし、調べてみて悪いことはないだろう。人を差し向けてとってこさせよう」
「私は牢へ入れられるのですか? それならば帳面をとってこられる際に、ご主人やおかみさんにしばらく帰れないが心配しないでほしいとご伝言をお願いできますか」
「自分が牢に入ることよりも、宿屋のほうが心配か。妙なやつだ」
ふと王子の目元がやわらかくなったような気がしたが、すぐにそれは消えてしまった。
「おまえの存在はしばらく伏せておこう。牢に入れれば城の者の多くが知ることになるから、クオードに身柄を預ける。ついてこい」