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73、魂の傷口

「こーんな美形な弟君がいるなんて、本当にうらやましいったら」

 椎名しいな絵利佐えりさは、クリップボードに何やら書き込みながら、鼻息荒く言った。

「君ねえ……長屋ながや君って言ったっけ? それだけかっこいいのにお姉ちゃんにべったりなんて、もったいなさすぎるよ。そんなじゃシスコンだよ。彼女さんに愛想尽かされるんじゃない?」

「彼女はいないので」

 長屋がよそゆきの微笑みを見せると、絵利佐は胸を撃ち抜かれたような、大げさなリアクションをした。

「うわあ、すでに愛想尽かされずみなのね。だったら今、フリーなんでしょ? オネエサンなんていかが?」

 自分を指さしながらわざとらしくしなを作ってみせる絵利佐に、有間ありまは――アーラは、大きくため息をついた。

「うちの弟をからかうのも、たいがいにしてよ。シーナは、同じ研修医の兵藤君と付き合っているんでしょう?」

「あいつはハイスペックだけどさ、あたし、顔は長屋君のほうが好みだよ」

 絵利佐があっさりと言い放つ。

 アーラは肩をすくめただけで、これ以上、この話題を続けることはやめにした。

 絵利佐の言葉は軽いが、実際に軽はずみなことは、決してしない。アーラを元気づけるために、わざとこんなあっけらかんとした話をしてくれているのだろう。

「それにしても、まさか、担当医がシーナだなんて思わなかったわ。ランチに行ったときに、救命救急センター配属になったとは聞いていたけれど、今一つ実感なかったの。でも本当に、最前線のお医者さんなのね」

 アーラがしみじみ言うと、絵利佐は肩をすくめた。

「あたしこそ、まっさかアーラが搬送――っていうか、救急車どころかドクターヘリで運ばれてくるなんて、思わなかったんだからね。二週間以上も心配かけておきながら、こんな派手な帰還のしかたって何なのよまったく!」

「……ごめんね」

「いや、アーラが悪いんじゃないけどさ。……あれは、事故だったんだし」

 アーラが目を伏せると、その手を、長屋が力強く握りしめた。

 今日は土曜日。長屋の仕事も休みだ。午後から両親も、妹の徳子をつれて会いに来てくれることになっている。

 病院のベッドで目を覚ましてから、徳子に会ったのは一度きりだ。徳子はアーラに会いに来たくなかったのだと、その目つきから一瞬で知れた。

 妹とは、正直折り合いがよくない。徳子が小学校の高学年生になったあたりから、一方的に嫌われている気がする。

 ――私よりずっと美人に生まれて、くらべものにならないくらい運動神経がいいくせに、どうして私を嫌う必要なんてあるんだろう? 

 徳子は、街を歩いていてスカウトされたほどなのだ。それからというもの、プロのダンサーをめざして、ダンススクールに通っている。オーディションもいくつか受けているらしい。

 地味で、「いい子」の仮面をかぶりつづけてきてしまい、起伏のない人生を送り社会人になったアーラより、ずっときらきらして楽しい青春だろうと思うのに。

 アーラの物思いを、絵利佐がすんっと鼻をすすりあげる音で断ち切った。

「だけど本当に、生きて帰って来てくれてよかったよ。ほんとうに、ここまで快くなって、よかったよ……」

 そして笑顔で、「じゃ、またあとでね」と手をふり、もどって言った。

 絵利佐の後ろ姿が見えなくなってから、長屋は口をひらいた。

「……ゼファって、何?」

「またその質問? 長屋、こだわりすぎなんじゃない?」

「さっき、俺が来てすぐのとき。寝言でまた言ってた」

「…………」

「ゼファってのにこだわってるのは、有間のほうだと思う」

 びくりとしたアーラを、長屋は見逃さなかった。

「有間は、脇腹を刺した奴を知ってるんじゃないのか? 刑事だって、バスが転落したときに負った怪我にしては不自然だと言ってた。誰かに刺されて、だけど有間はそいつをかばってるんじゃ」

「ちがう! やったのはゼファじゃない」

 言ってしまってから、アーラは青ざめた。

 長屋は目の色を変えて、身を乗り出した。

「やっぱり『ゼファ』って、人の名前なんだ? ものなのか場所なのか、なんだろうって思ってたけど」

「…………」

「転落事故の後、いったい何があったんだよ。知らないなんて嘘で、ちゃんと覚えているんだろ?」

 アーラが目覚めてから聞いた話では、アーラの乗ったバスがトラックと衝突し、その衝撃で山道から転落する事故が起き、アーラが脇腹に怪我をした状態で発見されるまでのあいだは、たった二週間と少しだったらしい。

 グランヴィールでは一年以上をすごしたというのに、バスの事故から今この瞬間まで、テレビ、カレンダー、新聞――ありとあらゆるものが、せいぜい一か月しかたっていないのだと示している。

 ゼファードやジルフィスとの出会い、グランヴィールですごしたすべてが、夢だったのかもしれないとも思った。

 けれども脇腹を剣に貫かれた事実が、刃に込められたクオードの暗い思いが、あれが夢などというやわらかくて不確かなものではないのだと、思い知らせる。

 ――私がここにもどって来ているということは、ゼファは、どうなったんだろう? 

 無事だろうか。自分は帰ったのだと、死んではいないのだと、信じてくれているだろうか。

 ――ジルが騒いでないといいけれど。

 何度、あちら側へと思いを馳せたかわからない。

 数えるのも馬鹿らしくなるほどの回数であることはたしかだ。

 入院生活の有り余る時間のなかで、湧いてくるのは自分自身の体や勤め先の心配よりも、ゼファードやジルフィスのことばかりだった。

 そして実の両親や、血を分けた長屋のことよりも、魂の半分を置いてきてしまった「あちら側」のことばかり考えている現実に、罪悪感を覚えていた。

「有間」

 呼ばれて、はっとしてアーラは長屋の顔を見た。

「また、考えこんでた。俺がいることなんて、すっかり忘れたみたいに」

「すねないでよ」

「すねてないよ。腹は立ってるけど」

「すねるより、そっちの方がよくないと思うけど」

「有間が話してくれないからだろ」

 ――話したところで……信じてくれるだろうか。

 本好きの彼女が考え出した物語程度にしか、思ってくれない気がする。

 それに、本好きの彼女がこれまでに読んできた物語によれば、不思議な世界で冒険をしてきた主人公が一度現実に立ち返ると、冒険はすべて「夢」か、「いい思い出」ということにされてしまうのだ。『不思議の国のアリス』や、『オズの魔法使い』のように。

 ――だけどあれは、「いい思い出」みたいに、遠くからふり返って懐かしくなれるものじゃない。

 思い出は過去だ。

 過去ではなく現在進行形で、まだ血を流し続けている、生々しい傷口だ。

 グランヴィールにもどり、末弟派との決着をつけ、自身が満足できなければ決してふさがらない、血を流し続けて憔悴するだけの大怪我だ。

 ――もどろうと思って、もどれるんだろうか。

 もしも、どうにかして、もどれるのだとしたら。

 また姿を消したことで、再び長屋や両親に、胸がつぶれるような心配をかけることになるのだろう。それはアーラの本意ではない。

 それなのに、もどりたいと思っている自分がいる。

 ――だったら、私の身に何が起きて、どうしてこんなことになって、次に私が行方不明になっても「あちら側」に行っただけだから心配しないでって、説明しておくべきかもしれない。

 そして「その説明を信じてもらえるのか」という心配の堂々巡りに、またしても陥ってしまう。

「ほら、まただ。俺ってここにいるの、無視したくなるくらいに邪魔?」

 捨てられた仔犬のような目で見返してくる長屋に、アーラは頭をかかえた。

「長屋……あんた、私が『うん、邪魔』って言わないのをわかっていて、そういう鬱陶しい聞きかたをするんでしょう?」

「心配してくれる弟に、ひどい言い様だね」

 そのとき、先ほど医局にもどっていったばかりの絵利佐が、カーテンのかげから顔をのぞかせた。

「仲睦まじい姉弟痴話げんかの最中に失礼します」

「シーナ……それって、わざわざ言うこと?」

「今ね、アーラ宛てに電話があったの」

 アーラの言葉をさらりと無視して、絵利佐が続けた。

「おばさんから。今日の面会ね、予定より一時間くらい来るの遅くなりそうだって」

「どうしてです? 今日の面会は、ちゃんと予定してあったことなのに」

 たいして気にとめなかったアーラに対し、長屋は眉をひそめて絵利佐に聞き返した。

 絵利佐は困った表情を浮かべて、

「ええとねえ……ちょっと、徳子ちゃんがゴネちゃったみたいで」

「徳子が?」

「おばさんがおっしゃるにはね、明日、徳子ちゃんがずっと受けたがってて前々から申しこんであった、オーディションなんだってね? でもアーラがこんなだし、バタバタしてるときなんだし……っていっても、徳子ちゃんはあきらめきれなくって。『お姉ちゃんのお見舞いなんか行かない!』っと、まあ、そんな感じらしくって」

 絵利佐とは中学生のころからの付き合いなので、両親も絵利佐のことをよく知っている。

 そのためつい、母も深い事情まで、電話で絵利佐に話してしまったのだろう。

 ――徳子もきっと、つらいはず。

 中学二年生なんて、最も傷つきやすく、感じやすい年頃だ。

 それでなくとも、両親も兄もそろって、いい年をした大人の姉のほうばかり見ていたら、苛立ったとしてもしかたがない。

 アーラは大きく息を吸い、そっとはいた。

 ――これは、一つのけじめだ。

「シーナ、長屋」

「なあに?」

「どうした?」

「ものすごく……ものすごく信じられないようなことを今から話すけど、笑ったり、馬鹿にしたりしないで聞いてくれる?」

 絵利佐はぴくりと眉を跳ね上げて、手近にあった丸椅子を引き寄せた。

「あたしが今まで、ド真面目なアーラの話をバカにしたことなんて、あった?」

「……なかったよね」

「有間、怪我をしたときのことを話すなら、刑事を呼んだほうがいい?」

 アーラは長屋に、ゆっくりかぶりを振った。

「ううん。この話は、今は二人だけに聞いてほしいの。」

 ――私がまたいなくなったとしたら。

 ――徳子に迷惑がかからないように。お父さんやお母さんが悲しみでいっぱいにならないように。そして長屋が、私から離れて歩き出せるように。

 けじめなのだ。

 ――あちら側へもどりたいと思ってしまう私がつけるべき、けじめなんだ。

「いい子」「真面目な子」の仮面をつけたままでは、傷口は血を流し続けるばかりだ。

 魂は半分に引き裂かれたまま、胸の奥の傷口から血を流し続けて生きていても、やがて心が死ぬだろう。

 ――今後もどれたとしても、もどれなくても……私の身に起きたことを、私という人間をよくわかってくれている人に聞いてもらうのは、きっと必要なことなのよ。

 今すべきは、血を流し続けている自分自身の魂の傷口と、きちんと向き合うことなのだ。


 そしてアーラは、真白いベッドという舞台の上で背筋を伸ばし、宮廷に上がった語り手のように、語りはじめた。

 王都に至る街道わきの繁みに転げ落ちてから、クオードの剣に刺し貫かれるまでの、グランヴィールでの出来事を。



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