72、世界の廻し手
ワゴンを押してきた使用人を手の一振りで下がらせる。小姓に琥珀色の酒の毒見を命じながらも、ヴァーディスは女の胴着の留め金をはずし続けた。
「胴着というものは、貞操の鏡だな。慎み深い女性は好きだ。金では手に入らない。あからさまに挑発的な刺激がほしければ、簡単に裂けるやわな帯をしめた娼婦に金を払えばよいのだからね。とはいえ……この留め金の数は、犯罪的だとは思わないかね?」
「やわな帯はつまらないとおっしゃったばかりですのに。あまりにあっけなくても、殿下はお喜びにはなりませんでしょう?」
女は微笑み、金属がはじかれる音を楽しむ風情だ。
「それに。わたくしのこの程度の胴着など、慎みのうちにも入りませんわ。近頃殿下がご執心のグラントリーの姫君であれば、鎧のように頑丈な胴着が、鋼鉄の乙女を守っているに違いありませんけれど」
「ああ、アーラ嬢のことか」
執心どころか、ヴァーディスはその名を紙屑のようにぞんざいに放った。
「あれはまるで子どもだ。色香のかけらもない。背は低く顔立ちは平板でちっとも目を引くものがない。おまえと比べられるものではないよ」
「まあ、嘘おっしゃいませ」
女はくすくすと喉を鳴らした。
「以前晩餐会で姫君にお会いになられたとき、かわいらしいと称賛していらしたのをわたくし、聞き逃しはしませんでしたのよ」
「夫のとなりに立ちながら、私とアーラ嬢との会話に聞き耳を立てていたのか。やきもちやきのご夫君にはばれなかったかね?」
「気づいたとして、あの愚鈍な男に何ができましょう? まさか、殿下に決闘を挑むわけにもいきませんわ」
「決闘を挑んでくれればそれはそれで有り難いがね。私が勝てば、堂々とおまえを手に入れられる」
「そのお手に抱きたいのはわたくしではなく、若くおかわいらしい姫君でしょう? グラントリーの姫君に比べれば、わたくしなどとんだ大年増ですわ。どんな殿方もわたくしに『かわいい』とはおっしゃってくださいませんもの」
ヴァーディスは機嫌よく唇をゆがめた。
「あんなもの。世辞と方便でなければ、世の本物の美女にささげる真実の言葉がなくなってしまう。私があの小娘を手中にしたいと望むのは、あれと同時に様々なものを握ることができるからだ。あれはサリアン兄上に対する人質になり、ゼファードへの牽制にもなる。あの坊やはずいぶんと彼女のことを大切にしているようだ。それに、彼の婚約者候補がわが妻になれば、民も次期王に相応しいのは誰かと改めて考える良い機会になるだろう」
毒見のすんだ酒杯を受けとって、ヴァーディスはひとすすりしてから女の唇にあてがった。
「……そして、だれがこの世を廻しているのかを知らしめる機会にも、な」
一方、小姓は別のワゴンから香油とクリームの瓶を取り出して匂いをかぎ、少量ずつ手にとって皮膚の薄い腕の内側にすりこんでいる。しばらくしても皮膚が荒れる兆候が表れないのをたしかめてから、主人の寝台脇にそれぞれの瓶と清潔な布を畳んで置いた。
ようやく胴着のすべての留め金と紐が彼女の体を解き放った。小姓は主人とその相手の二人きりの夜を尊重すべく一礼し、湯の用意をするためにも、その一室から立ち去った。
厳重に人払いがされ、尚且つ形のない忠誠と、姿を見せることのない影の守り手たちによって堅牢に築かれた空間には、緊張と一言では言い表しえない気配が張り詰めていた。
ゼファードの執務室で、ジルフィスはひどい決まりの悪さを感じていた。だが避けては通れないものを、ぐずぐずと先延ばしにするほど軟弱ではなかった。軟弱では、名家に生まれても筆頭騎士にはなれないし、万一、家名のおかげでなれたにしても務まりはしない。
「とんだ醜態を晒してすまなかった」
いきおいよく頭を下げる。あまりに勢いがつきすぎて、あと一寸ほどでゼファードの執務机に衝突するところだった。
ゼファードは紙をめくる手、ペン先を動かす音を止めることなく、従兄に告げた。
「ジルが頭を下げることじゃない。俺は……うらやましいとさえ思ったんだ」
その声に込められたものを感じ、ジルフィスはおずおずと顔を上げた。ゼファードは相変わらず手を止めようとしなかったが、それは努めてそうしているようにも見えた。
「起きてしまったことは動かしようがない。だから一番大切なのは、これから先へどう動くかだ。俺は、アーラを取り戻す」
「……できるのか。そんなことが」
途端ゼファードのペン先が折れ、わずかにインクが飛び散った。彼は睨むようにジルフィスを見上げ、藍色の目を光らせた。
「できないと思ってしまえば、できないに決まっている。できると信じているからこそ、やっているんだ」
ジルフィスは息をのみ、ペンを放り出して立ち上がった従弟を見つめた。目もとはやや落ちくぼみ、白皙は疲労と心痛のためにひどい顔色となっている。若き王子というよりも、難局を前にした連戦の軍師のような面持ちだ。嘆き叫び走りまわったジルフィスのほうが、ずいぶんと血色がいいほどだった。
「やっている、とは?」
「アーラは異世からグランヴィールにやって来た。その後彼女は城下の宿屋に世話になり、俺が気分転換に語り手から面白い話を聞きたいと駄々をこねるまで、そこにいたわけだ。そもそもの初め、彼女がいったいどんな様子でグランヴィールを訪れたのか、宿屋の主人夫妻にアーラが話しているのではないかと思って、手の者に調べさせた」
ジルフィスはあろうことかユンナに泣きつき、ようやく立ち直るだけのものを得られたというのに、そのあいだにゼファードは一歩も二歩も三歩も、這うようにしてでも自身で前進していたようだ。
「結果、アーラがグランヴィールに『転がり出て』来たとき、どこに着地したかがわかった」
都の門を出てしばらく馬車を走らせた茂みの近くだとゼファードが口にすると、ジルフィスは体に震えが走るのを感じた。
「それは、偶然かもしれないが、その」
「ああ。おまえの……“本当の”妹が生まれ落ちた場所だ。レディ・ティアーナから、例の早産について教えていただいた」
ひゅっと、ジルフィスの喉が鳴る。ゼファードはうなるようにして次の言葉をつづけた。
「そして、アーラはそれとまったく同じ場所で悪夢にうなされ、倒れたことがある。ただの街道脇の茂みで、その同じ場所で、これらのことが起こっているんだ。どうしたって無関係とは思えない」
「じゃあ、アーラは」
「彼女が帰ってくるとしたら、その場所しかないだろう」
ゼファードはそう断じて、まっすぐにジルフィスの目を見返した。
「セリスティンに頼んで、あの周辺について調査してもらっている。セリスいわく、何らかの原因で強力な磁場が生じているか、茂みの中に、ある体質の者だけが反応する胞子か花粉のようなものを発する植物が生えているか、可能性は幾通りかあるそうだ。セリスの見解を待って、次の手を考える」
「次の手……」
「彼女を取り戻すための手立てだ。まさかジルだって、百年も前の雨乞いのように楽を奏でて踊れば雲間からアーラが降ってくると考えているわけではないだろう?」
歌って踊るだけで彼女が帰ってくるならばいくらでもそうするが、ゼファードの言うとおり、そんなことでアーラが戻って来られるとはとうてい思えない。だからといって、磁場だの胞子だのと言われてもジルフィスにとってまったくの守備範囲外なので、よけいに心許なかった。
――たしかに、これはセリスとコルディアの領分だ。
ジルフィスがこめかみをさすっていると、ゼファードは拳をにぎりしめて、低い声でささやいた。
「セリスには今、何かと無理を吹っかけている。クオードの件も預けてあるからな。だが、あいつほどこういった面で力を発揮する者はそうはいない。コルディアにも今、重要な案件をまかせてある。こちらも結果待ちだが、コルディアのことだから、仕損じることはないだろう。セリスとコルディアの成果が出るまでの間に、俺たちにはやるべきことがごまんとある。……ジル、協力してくれるか」
――協力してくれるか、だって?
ジルフィスは泣き笑いのような気持ちで膝を折り、従弟の前にこうべを垂れた。
「王子殿下がそのようにおっしゃられるとは」
ゼファードは「俺たちには」と言ったのだ。赦しを乞いに来たのはこちらなのに、ゼファードはジルフィスに協力を仰いでいる。
「何なりとお申し付けくだされば、なんでもいたしましょう。わが身は陛下をお守りするためにあろうとも、我が忠誠は殿下にささげますゆえ」
すると、ゼファードがフンと低く鼻を鳴らした。
「おまえがかしこまって言うと冗談にしか聞こえないから、その言いかたはやめてくれ。俺は命令しているわけじゃない。従兄であり友人であるジルフィス・グラントリーに力を貸してほしいとたのんでいるんだ」
深く下げていた顔を上げると、今度はゼファードのほうがきまり悪そうに視線をそらした。
「ヴァーディスと末弟派を排除し、アーラを取り戻し、近ごろ寝ぼけたことばかり吐かしている我が親父殿をどついて目を覚まさせる――そのどれ一つをとっても、俺一人には荷が勝ちすぎている。だから……ジルの気持ちを知っているのに、俺は残酷にも手伝ってくれと言っているんだ。膝なんてついてくれるな」
ジルフィスは目を瞬いた。
「忠誠も力もゼファにささげるし協力も惜しまんが、アーラまで譲ってやるだなんて俺はこれっぼっちも思ってないぞ?」
思わずこぼれたジルフィスの素の言葉に、ようやくゼファードの表情がわずかだが緩み、唇の端が上がった。
「俺だって、『譲られる』気などさらさらない。アーラは、俺がこの手で勝ち取る」
その宣言が、合図でもあったかのようにはりつめ凍てついていた空気を溶かした。二人は互いの拳を一瞬合わせ、ゼファードは執務に戻り、ジルフィスは踵を返した。
磁場も、胞子も、花粉も、ヴァーディスも末弟派も貴族議会も、ジルフィスとサリアンを呼びつけて世迷い言のような謎かけをした王も、そしてアーラを取り戻すことも、独りではおそらくどうにもならない。だがそのどうにもならない物事を、独りではなく、一人ひとりの力を縒り合せて、ほんのわずかずつでもたぐり寄せることができたなら、物事は――世界は、軋みをあげながらでも動き始める。
だからこそ動かすために、まずは己たちが動くのだ。