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71、帰還

 これは夢だと、初めからわかっていた。

 十数年前の記憶が無意識の表層にまで上り、夢として映し出されている。声も、台詞も、すべて覚えている。記憶が再上映されているだけの夢だ。

「どっちが苗字でどっちが名前かわからないって、ときどき言われるんだよね」

 夢の中でそうため息をつくと、同じ机を囲んでいる結城ゆうき比奈子ひなこ椎名しいな絵利佐えりさが苦笑した。

「まあねえ」

「否定はしないよ」

「でもヒーナだってユウキとヒナコなんだから、似たようなもんじゃない?」

 絵利佐に指摘された比奈子は、ふっくらした頬が愛らしい顔の前で、ひらひらと手をふった。

「あたしの場合はどっちが苗字でどっちが名前っていうより、どっちも名前みたいに聞こえるんだよね。でも、『比奈子』が苗字だなんて考える人はいないから、ちゃんと結城が苗字だってわかってもらえるし、間違えられたりしないよ」

 中学一年生の五月。

 難関校といわれる中高一貫の私立女子校の入学試験に合格し、無事に入学式を終えた少女たちにとって、ようやく日常というものが日常らしくなってきた頃のこと。

 クラス内の親睦を深めるという名目で、林間学校が行われることになっていた。

 くじ引きでグループがわけられ、グループごとに班長を決めるようにと言われたものの、少女たちはまず自己紹介を含めたおしゃべりに興じていた。入学してまだ一か月しかたっていないのだから、顔と名前がようやく一致している程度で、誰が班長に向いた気質かなど知る由もないのだ。

「でも、ラッキーだったよね。あたし、ヒーナが一緒じゃなかったら、絶対心細かったもん。おんなじクラスになれただけでもうれしかったけどさ、今回くじ引いてもおんなじ班って、なんだか運命的なものを感じるよね」

「シーナってばおおげさだよ」

 比奈子がはにかんだ。

「シーナだったら、違うクラスになってたって、ぜったいすぐにたくさん友だちできちゃうよ。部活だって、あちこちから引っ張りだこなんでしょ?」

 椎名絵利佐は肩をすくめて、

「サッカーと陸上とテニスね。でもここってさ、進学校だから、あんまり運動部は強くないでしょ? どうせ勉強に追われて身を入れられないなら、あたし、中学からは文化系もいいなーって思ってるんだ。ヒーナは合唱部って決めてるんでしょ?」

 比奈子と絵利佐は小学四年生の時から同じ塾でトップを争い、共に受験を戦った仲なのだ。知る顔がひとつもないところからスタートした者にしてみれば、うらやましい限りだった。

「うん、決めてる。市の合唱団も続けるけどね。遠野さんは部活どうするの?」

 比奈子ににこにこと尋ねられる。しかし「遠野さん」は、部活動よりもさらに差し迫って重要なことについて、指摘せざるを得なかった。

「ねえ。結城さんも椎名さんもあだ名で呼び合ってるのに、私だけが苗字呼びって、さびしいよ」

 二人は顔を見あわせて、鏡のように同時にまばたきをした。

「そう言われれば、そうなんたけどさ」

「でも、最初っから名前呼びとかあだ名呼びって、なれなれしいでしょ? あたしとシーナは、四年生のときからずっと一緒だけど」

「それに遠野さんって、すごくちゃんとした感じがするものね」

 比奈子がそう付け加えた。

「軽々しく呼んじゃいけない感じ」

 自分よりもはるかに優秀な、医者や弁護士や経営者の娘たちが――将来医者や弁護士や経営者や、その他社会的に高い地位を「実力で」つかみ取るだろう少女ばかりが――ごまんと集うこの学校に来てまでして、まさか、「ちゃんとした感じ」だから「軽々しく呼んじゃいけない」と評されるとは思わなかった。

 型破りなことにあこがれつつも、型を破る勇気が出ないばかりに、かぶりつづけていた「真面目な子」のお面が、お面ではなく素顔に近いものになってしまっただけだというのに。

「そんなことないよ。私、友だちには苗字じゃなくて、あだ名で呼んでほしいよ」

「遠野さんが、そう言うなら」

 絵利佐が重々しくうなずき、向きなおった。

「じゃあ、これからは有間ありまちゃんって呼べばいい?」

「あ、ありまちゃん……」

 それは、何ともいただけない響きだった。

 幼い頃は、その呼び名をどうと思うこともなかったが、自分の名前の由来を知ってしまってからというもの、「有間ちゃん」は可能な限り遠慮願いたかった。

 班のメンバーを書きこんだプリントを眺めて、絵利佐が言った。

「めずらしい名前だよね、有間って。有馬温泉? あ、字が違うか」

「由来は有間皇子ありまのみこなの。知ってる? 七世紀の人なんだけど」

 中学受験では、同じ時代の中大兄皇子や中臣鎌足はよくよく頭に叩き込んでも、有間皇子となると、テキストに名前が出てくるか出てこないか微妙なところだ。絵利佐と比奈子の答えも、「聞いたことはある気がするけど」だった。

「大化の改新の後、有間皇子は父帝が亡くなって後継者争いに巻き込まれそうになるの。でも中大兄皇子が皇太子になったし、有間皇子は天皇の位につこうとは思わなかったから、病気のふりをして政治の場から遠ざかった。……だけど、中大兄皇子の一派には、頭がよくて優しくて人気だった有間皇子が邪魔だったのね。結局、有間皇子は臣下の裏切りにあって――実は中大兄皇子が送り込んだスパイだったみたいなんだけど――十八歳かそこらの若さで、処刑されてしまうの」

「……ええと、つまり。ご両親はその有間皇子みたいに、頭がよくて優しくてたくさんの人から好かれる子になるようにって、そう名付けたんでしょ」

「そうなんだけど、ね」

 うなずきながらも、ついため息がもれてしまう。

「私も歴史上の人物としては、有間皇子のこと好きだよ。美少年だったらしいし。……でも、裏切られて若死にした皇子様の名前なんて、ふつう娘につけるかなあ?」

「オーケイ。つまり君は、苗字呼びは嫌だと言いつつも、“有間”と名前で呼ばれるのもあんまり歓迎じゃないというわけだ」

「そこまでは、言ってないけど」

「オーライオーライ、別に怒っちゃいないよ」

 絵利佐はウインクして、

「あだ名の考え甲斐があるなって、そう言いたかっただけだよ。ねえヒーナ?」

「うん! じゃあ、『ありま』をひっくり返して、『まりあ』っていうのはどう?」

 比奈子が目を輝かせて候補を口にしたが、あだ名として『まりあ』と呼ばれるのは畏れ多い気がしたし(シスターの耳に入ったら何と言われるだろう!)、何より自分には、その聖女然とした名前は、とても似合わないと思われた。

「いいアイデアだと思ったんだけどなあ……」

 比奈子はしゅんとしたものの、またすぐに二、三考え出してくれた。しかし「アリちゃん」も「リマちゃん」も、絵利佐の笑いを誘っただけだった。

「ヒーナ、だめだよ。もっとカッコよくなくちゃあ」

 絵利佐は指摘した。

「逆読みも部分読みもだめだったから――そうだ、アナグラムはまだ試してなかったね?」

 絵利佐のシャープペンで、プリントの端にARIMAとローマ字が書かれた。

「これをいろいろ組み合わせてみよう。Aが二個あるんだよね。AMIRA、MIRAA、IMARA……あ!」

 絵利佐が大発見をしたというように満面の笑みを浮かべ、プリントにIMARAと綴った。

「イマラ?」

 比奈子が首をかしげる。「カッコいいかなあ?」

「違うよ、イマラじゃない」

 にやにやと、絵利佐はもう一度IMARAと書いた。ただし、今度はMとAの間を少しあけて。

「IM ARA。Im Ara。I’m Ara。アイム、アーラ! アーラだよ」

「I’m Ara? 『私は、アーラ』?」

 本人がぽかんとしているのにもかまわず、比奈子も歓声をあげた。

「ヒーナ、シーナ、アーラ! とってもいいじゃない?」

 そしてこの日から、遠野有間はアーラになったのだ。


 白い光が、まぶたをかすめる。

 夢の登場人物とは異なる質感を持った人間の気配を感じる。

 夢とは違う階層に、意識が、少しずつ――……



 長屋ながやは姉のひんやりとした手を握りしめて、小さく息をついた。

 慣れ親しんだ姿よりも、一回りは痩せてしまった気がする。低体温による冬眠か仮死状態のようなものに陥って随分と長いあいだ飲まず食わずだったとしたら、それも仕方のないことだろう。

 いつも生気にあふれていた双眸は今は蒼白いまぶたに隠され、よく喋りよく笑った口もとも、長く黙ったままだ。

「有間」

 そっと、姉の名を呼ぶ。

 年子で体格があまり変わらなかった――むしろ、子どものころからあまり背が高いほうではなかった彼女に対して身長のよく伸びた長屋は、一見弟ではなく、双子か兄に間違えられたものだ。

 そのたびに幼かった姉は怒り、「お姉ちゃんと呼びなさい」と息巻いたので、以来長屋はおよそそう呼ぶようにしてきた。

 しかし成人して幾分寛容になった姉は、「姉さん」に混ぜて時折「有間」と呼び捨てても、笑って許すようになっていた。

 ――やっと、帰って来たのに。

 望みを捨てずに信じ続けてきたことが、報われた。姉は長屋たち家族のもとへ帰ってきた。脇腹に、両刃の剣のようなもので刺し貫かれたとしか思えない重傷をこしらえて。

 腎臓が傷ついていたという。出血もひどく、あと少しでも発見が遅ければ命はなかったと医者は言っていた。ドクターヘリを呼んでもらえたおかげで間一髪で間に合ったらしい。それでも、峠は越えたとはいえ、まだ意識は回復していない。

 バスの座席の部品や車体のかけらが刺さったにしては切り口がきれいすぎるし、何が刺さっていたにしても、その『凶器』が現場に残されていなかったのは不自然だというのは、刑事の台詞だ。「事故じゃなく、殺人未遂事件かもな」そんな刑事同士の会話を、長屋は漏れ聞いた。

「いったい……何があったんだ」

 握っていた有間の手を、今度は両手で包みこむ。そのとき手のひらの中で、何かが動いたような気がした。何かといっても、あるのは有間の手だけで――

「有間?」

 まぶたが揺れる。唇がかすかに開く。まぶたの隙間から現れた褐色の瞳は、ぼんやりと長屋を見上げていた。

「ぜ……ふぁ?」

「なに?」

 反射的に耳を寄せると、彼女はまた「ぜ……ふぁ」と息の抜けるような音を出した。

 長屋は身を起こして、もう一度手に力をこめた。わずかだが、握り返そうとして彼女の指先がうごくのを感じる。

 目が、覚めたのだ。

 長屋は自分が震えているのを感じた。

 本当に、有間が戻ってきたのだ。


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