70、熱情
アーラの手の温み。それが薄れゆく感触。やがて訪れた、空虚な温度。
だが、完全に失ったと考えることは、ゼファードの頭が拒絶していた。
彼女は消えたのだ。死んだのではない。死んだ者は取り返しようがないが、消えた者は見つかる可能性がある。
――そんなもの、現実逃避しているだけだといわれても仕方がないかもしれないが。
それでも、その可能性を今すぐに手放さなくてはならないいわれはない。
とはいえ、心の一部が現実逃避していたとしても、実際には現実と向かい合ってやるべきことがいくらでもあった。監査吏にクオードの骸を引き渡し、父に古馴染みである近衛の不始末を報告する。父王は眉一つ動かさずにクオードにまつわる報告を聞き、それどころか、面白がってさえいるきらいがあった。その態度にはらわたを煮え返らせながらも、ゼファードはすぐに動ける密偵たちを呼び寄せて、今際の言葉としてクオードが遺した末弟派の動きの裏付けを取ってくるように命じた。
叔父のグラントリー公のもとへは急使を走らせた。サリアンには、クオードが引き起こした事の次第を打ち明ける必要があった。戸籍上、アーラの父親となっている彼には、何としてでも協力を仰がねばならない。王子の家令であり、且つ婚約者候補である王弟グラントリー公の令嬢が消えたなど、あってはならない事態なのだ。上手く方便で塗り固めなければ、グラントリー家とゼファードは共倒れになる。末弟派はこれ以上労せずして、やっかいな障害を一時に取り除ける事態になってしまう。
サリアンと話し合う場にジルフィスも同席させようと思ったものの、従兄の行方は知れなかった。アーラが消えてしまうまで彼女を抱きかかえていたジルフィスは、その後取り乱して走り去ったまま、音沙汰がない。いくら何でも明日には気持ちを落ち着けて、筆頭騎士としての立場をわきまえ戻ってくることだろうと思うのだが。
自分もあれほどまでに我を忘れて嘆けたらよかったのにと、ゼファードは思わないでもなかった。しかし嘆いたところで、何事も進みはしない。泣きわめいて彼女が戻るならそうするが、そうとは思えないゼファードは、自分の正しいと思うやり方でアーラを取り戻すべく努めるつもりだった。
サリアンと共に「アーラは病により臥せっている」という表向きの情報をこしらえ、噂としてささやかれそれとなく宮廷に知れ渡るように、しかるべき各所に伝えた。末弟派が焼き菓子に毒を仕込んだのは事実だ。アーラが臥せったと聞けば、毒にあたったからだろうと敵方も納得するに違いない。
――まったく。
仕舞いにアーラの義母――ティアーナに「あること」を確認する密書をしたためつつ、彼は自嘲した。
――馬鹿馬鹿しい頭の固さだな。
できる限りの手を尽くし終えて気づいてみれば、夜になっていた。
普段の三倍速で回転していたようだった脳が突然通常回転に戻り、ゼファードの内側には虚ろな静寂が訪れた。
執務室の窓からぼうと月を眺めていたゼファードは、音もなく近づく気配に振り返った。
「コルディアか」
「まったく、殿下が腑抜けになってしまわなくて何よりですこと」
密偵の彼女はまるで猫のようにどこにでも現れ、足音を立てない。
「クオードが暴挙に至ったいきさつについては、セリスティンが調査を続けております。末弟派がくだらない脅迫を仕掛けていたのは、本当のようですわね。それに乗ってしまったクオードは馬鹿というか……いいえ。わかっていて、わざと乗ったのかもしれませんけれど。まったく、男の嫉妬ほど始末に負えないものはありませんわね」
「“もう一つの仕事”の方は?」
「うまく仕込んでいますわ。まず、怪しまれようのないやり方ですもの。とばっちりを受けるまわりの者たちが少々気の毒ですけれど……まあ、気づかない程度でしょうから。気づかなければ、とばっちりにもなりませんわね」
経過報告を終えると、それこそ猫のように大きな瞳で、まじまじとゼファードを見返した。
「アーラ様を探し出せる算段はありまして?」
「わからない」
ゼファードは正直に答えた。
「だが、気になっていることはある」
「それはようございました。その可否が出るまでは、絶望せずともすみますものね」
「コルディア」
「何でしょう?」
「……ジルフィスのように取り乱して嘆いたほうが、女は嬉しいのだろうか」
思わず尋ねていた。気でも違ったのかと、なんて馬鹿げた質問だと、自分でも思う。相手がコルディアでなければ、とても訊くことなどできない問いだ。
やはりコルディアは珍しくもきょとんと目を瞠り、一拍おいて、くすくすと笑いだした。
「可愛らしいことをおっしゃいますのね」
「たのむから笑うな。馬鹿げているとは承知の上で、真面目に訊いている」
「殿下が真面目でいらっしゃるのは嫌というほど存じておりましてよ。ですがそのご質問には、一概にはお答えできかねますわね」
コルディアは自らの頬に細い指でとんとんと触れながら、
「気が違うほど心配してほしい、自分がいなくなったことで絶望して取り乱してほしいと思う女性はいることでしょうね。ロマンチックですもの」
それを聞いてゼファードは、自分で予想していたよりもよほど消沈した。
「……そうか」
「ですが」
何とも言えない気分で下げかけた視線を、ゼファードはコルディアの上にもどした。彼女はにっこりと、人の悪い笑みを浮かべている。
「世の女性の何割がそんなロマンチックさを求めるか知ったことではありませんけれど、わたくしなら願い下げですわね。もしもわたくしがかどわかしに遭って、セリスがそんなふがいない様子なら……いくら恩人とは言え、わたくし、生きて戻ったなら蹴飛ばして絶縁状突きつけてやりますわ。泣いている暇があったら足の裏の擦り剝けるまで探せって思いましてよ」
それがコルディアの本心なのか彼女なりの慰めであるのか量りかねたが、どちらであれ、彼女とアーラが同じ考えであるという保証はなかった。それでも励ましを得られたのは事実で、ゼファードはそんな己に苦笑した。
「コルディアらしいな」
「アーラ様らしいとは言いきれなくて恐縮ですけれど」
――まったく、見透かされている。
コルディアは優雅に臣下の礼をした。
「それでは、失礼いたします」
「ああ、待て」
「なんでございましょう?」
ゼファードは小さく結んだ文を差し出した。
「これをレディ・ティアーナに届けてくれ。そして、できるだけ早く返事がもらえるように伝えるんだ。それから、もう一通。これは春の芽吹き亭に」
コルディアは「承知しました」と膝を折り、現れたときとおなじように音もなく退出した。
再びひとりきりになって、ゼファードは、あのときアーラの手を包んでいた自分の手のひらを見つめた。
――必ず、呼び返すから。
ふつふつと血がざわめく。声が聞きたい。触れたい。強く、拳を握りしめる。
――生きていてくれ。