補足編、従兄と従妹と兄妹のあいだ
謹んで新春の御祝詞を申し上げます。
大変ご無沙汰してしまいました。
オンの仕事が忙しく、そのほかにも諸々が立て込んで、
なかなかこちらを進めることができませんでした。
自身の復習とリハビリも兼ねて、補足編をお送りいたします。
本編「38、王子殿下の従妹と従兄」の、ジルフィス視点です。
お楽しみいただければ幸いです。
彼女から赦しが与えられるのなら、何だってするつもりで来たのだ。
ジルフィスはアーラの傍らに跪き、彼女のたっぷりした夜着の裾を手に取ってそこに口づけた。彼女の唇どころかその皮膚でさえない、このような夜着の端に唇を寄せるだけで、こんなにも鼓動が速くなる。
「兄妹なんてくそくらえだ。俺たちは血がつながってなんかないし俺はアーラが好きだし浮気も花街遊びも金輪際ないと誓える。もちろん、すぐに応えてくれなんて言わない。今はただ赦してもらえればそれでいい」
一息でまくしたてた。彼女の髪と夜着から紫草が香る。
「ちょ、ちょっと待ってジル」
アーラの声は上ずり、うつむいているジルフィスにその表情は見えなかったが、慌てふためいている様子がありありと想像できた。
このまま抱きしめて呼吸と自由を奪ってしまえば少なくとも、もっとも凶暴な欲求は充足させられるだろう。しかしそれではその一度きりのために、彼女を永遠に失うことになる。生真面目でどこまでも筋の通ったアーラが、兄妹に相応しい微笑ましいだけの関係を超えることを嫌悪するなら、その嫌悪を緩々と解きほぐし消し去った後でなければと、ジルフィスは重々己に言い聞かせた。
――おまえならできるだろう、ジルフィス。だから急くな。アーラを得たいなら、急くな。
「あのね、ジル」
視線を伏せたままで赦しを待ちわびていると、アーラがほとほと困り果てた声で彼の名を呼んだ。
「あなたが勘違いしているようなら言わせてもらうけれど、多くの神話で語られる原初の婚姻が兄妹姉弟か母子なのを理屈として当然のことと受け入れられる私は、兄妹の恋愛を非難する主義ではないわ。もっとも私たちは血がつながっていないんだから、それが障害というのでもないの」
ジルフィスは息をのんだ。思わず顔を上げて、食い入るように彼女の双眸を見つめる。
「だったら」
――だったら、どうして。
焦がし砂糖のように甘く少し苦く美しい色の瞳に問いかける。視線で問い詰めると、わずかにひるんだらしくアーラの喉がこくりと動いた。それでもそこはやはり彼女で、まばたき一つで自身を律したようだ。もう、声はしっかりしていた。
「馬車の中でも言ったでしょう。私はジルのこと好きよ。でもそれは恋人たちがささやく好きとは違うし、そんな私の気持ちがこれからどういうふうに変るかだなんて、不確かなことは私にだってわからない」
低く落ちついた声音で語られた彼女の意思は、ジルフィスを打ちのめした。もちろんそれは彼女が悪意を持ってそうしたからではなく、あくまでも正直に、誠意ある答えを述べてくれたからこその結果であることはジルフィスも承知している。
それでもその誠意こそが、兄妹という立場がなくとも彼女をこの手に勝ち取ることは多大に困難であると、突きつけてきたのだ。
花街でも、市中でも、女と名のつくものはジルフィスの視線を求めるばかりだった。求められたことは数あれど、拒まれたことなど、ただの一度すらなかった。それなのに、彼を好きだと言ったのと同じ舌で、アーラは好きの意味合いが違うとのたまうのだ。彼女はジルフィスに、一夜の夢どころか、甘い囁きも口づけも求めていないのだった。
呆然としていたジルフィスに、不意に、白い手が差し伸べられた。アーラの指先が恐る恐るといったようすでジルフィスの頬に触れ、やわらかな赦免が降ってくる。
「……あのときのことは、もう怒ってないから大丈夫。だから気に病まないで」
彼女の指先が触れている箇所から血流が生まれるかのように、ざあざあとその音が聞こえるほどに。アーラのわずかなしぐさで、掻き乱される。鼓動が轟音になる。
頬にのびている腕を引きその唇といわず首筋といわずまぶたといわず、全部を自分のものにしてしまいたかった。だがそれでは、せっかく赦しを得たというのに、同じことの繰り返しになる。
――どうして。
ああ、どうしてこんなに。
――俺はあきらめが悪いんだろう。
それは彼女の残酷な優しさのせいだ。澄んだ聡明さのせいだ。歪んだ狡猾さであればよかったものを。そして、不器用なほどの生真面目さのせいだ。……そう思い込むことにして、優しさに乗じ我儘を迫ろうとした。
もう一度キスをさせてほしいと。触れるだけのものでいいからと。だが、そう口を開きかけたところで、思い直した。失った信頼の綻びを繕うのは大変なことだが、繕ったものが再び綻ぶきっかけは、ほんの些細なものでかまわないのだ。
――急くな。
改めて己に言い聞かせる。
「……抱きしめても?」
これならばと考えてひかえめにねだると、アーラはそれでもたっぷり二十秒近く逡巡して、ようやくうなずいた。
椅子から落ちるようにすとんと腕の中へすべりおりてきたアーラを、ジルフィスは息をつめて抱きしめた。掻き抱きたい衝動の手綱を引き、そっと、包み込むように抱擁する。温かくやわらかなこの存在のそばに、こうして抱きしめられるほど近くにいられることを今はまず感謝すべきだと、彼は自分自身を説き伏せた。
――そして、いつか。そう遠くはないうちに。
彼女の心を勝ち取ってみせる――ジルフィスは奥歯を噛み締めた。
どこの誰が彼女に言い寄ろうが、心を望もうが、関係ない。彼女が簡単に手折られる花ではないことは身に沁みて思い知ったところだ。兄として友人としてアーラのそばに在り続け、彼女が愚かな崇拝者たちを袖にし続けるのを見届けながら、少しずつ彼女の意思を解きほぐし手繰っていけばよい。何人が彼女を求めても、彼女が靡かなければ痛くもかゆくもない。アーラに一番近しい位置にいるのは、自分なのだから。