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補足編、悪夢と自覚のあいだ

時系列は「54、悪夢」と「55、自覚」のあいだあたりです。



 あらためて天幕の中のアーラを見舞いに来たゼファードは、毛布を羽織り膝を抱えている彼女をそっとうちながめた。

 悪夢の毒気にあてられたらしく、アーラの精神は、彼女という存在の一番見つかりにくいところにもぐりこみ小動物のように縮こまって震えているように思われた。

 ゼファードは唇を噛んだ。普段のアーラは冷静沈着そのものだというのに、先ほどは突然この世の終わりを見たかのように、頭をかかえて悲鳴をあげたのだ。馬車を止めた後、気がついた彼女に冗談めかして油虫でも出たのかと言ってはみたが、あの恐怖にひきつれた悲鳴は、その程度であるはずもなかった。

――しかも、だ。

 首筋にぺたりとふれられた、アーラの手のひらの感触を思い出す。

――アーラが不用意に他人の肌に触れるだなんて、信じられない。

 彼女は何度も確かめるように、ゼファードの項から鎖骨にかけて手を往復させた。その恐怖に見開かれていた双眸がやがて安堵に変わるさまを見ていなければ、肌に添うその手のひらを、彼は都合の良いように解釈してしまいたくなるところだった。

 「何があった?」とたずねたゼファードに、アーラは目を閉じ、苦いものを噛むように眉間にしわを寄せて、ささやいたのだ。

「私の名前の夢を見たのよ」

 ゼファードは、アーラが彼女の生まれた国で何という真名を持っていたのかを知らない。あちらでも彼女が“アーラ”と呼ばれていたのは確かだが、彼女の言った「私の名前」とはゼファードの知らない、告げられていない本当の名前のことなのだろう。しかしアーラの両親がアーラを、彼女のように清廉で、歪みのない気質に育て上げた人物ならば、悪夢を見て取り乱すほどの忌むべき真名を娘に与えたとは、どうしても思えない。

――いったい、どういうことなんだ?

 歩み寄ると、アーラがはじかれたように顔をあげた。顔色はもう戻っていたが、それでも彼女が本調子でないことは一目で知れた。

「落ちついたか?」

「うん、大丈夫。迷惑をかけてごめんなさい」

 アーラはゼファードに視線を合わせ、微笑んで見せようとする。それはこちらを安心させるためのすべであって、彼女が心から笑える体調でないことくらい嫌でもわかる。

 ゼファードはアーラの前に腰を下ろしながら言った。

「おまえの『大丈夫』は、ずいぶんとあてにならない気がするが」

「いくつも前科があるように言われるのは大いに不満だわ」

 彼女の返事に思わず口角が上がった。憎まれ口が返せる程度には落ちついたのだと、ほっとする。

「アーラはよく無理をするから」

「自分で無理と思わないうちは無理じゃないでしょう」

 アーラは毛布を羽織ったままもそもそと動いて、ゼファードの正面に座りなおした。かと思うと両手の指先がそろえられ、静かに頭が下げられる。

「ごめんなさい。とんでもなくみっともないところを見せたばかりか、行程をこんなにも遅らせてしまって」

 謝罪の際に指先をそろえ床についたうえで頭を下げるのは、グランヴィールの作法ではない。彼女の故郷である“あちら”のやり方なのだろう。見慣れないが、指先を小さな面積についていることで体が一回りも二回りも小さく萎縮しているように見え、彼女が感じている申し訳なさが伝わってくる。

 たしかに行程は予定より遅れるが、だからと言って誰かの命にかかわるような危急の案件ではない。もともと、迅速が過ぎるくらいに王城を出てきたのだ。一日二日遅れてちょうど、まともな公用馬車を仕立てての所要日数と同じになる程度なのだから、彼女が気に病むことではないのだ。

 それなのに。

「もう私、なんともないから。迷惑をかけて、本当にごめんなさい。すぐにでも出発して」

「ちょっと待て。アーラ、もっとゆっくりしたって全然かまわないんだ」

 顔を上げたアーラの目にたたえられていたものは申し訳なさというよりも怖れと不安で、それを認めてゼファードは息をのんだ。

――アーラ? 

「ううん、もう大丈夫だから。これ以上私のせいでお供の方々にも待っていただくことなんてできないし、もしそうしろといわれても、私のほうがいたたまれないの。だから、出発して。すぐに」

――何におびえている? 

 指先はいつの間にか毛布の端をにぎりしめ、喉がせわしなく上下する。アーラは懸命に平静を保とうとしている。

 抱きしめたいと思った。有無を言わせず抱き寄せて、ここにいれば、一緒にいれば怖れる必要などないのだと、その髪と背を撫でたかった。慌てて発たなくともゆっくりすればいいというのは上辺でも方便でもない。ただアーラに頼ってほしかった。怖いのであれば、すがりついて泣いてくれればいい。そうなれば、甘やかすことだってできるのに。

 それなのに、彼女がまとう鎧を引き剥がしてまでして好意を押し付ける度胸は、残念ながら彼は自分の内側に見つけることはできなかった。肩を抱き寄せることも、髪を撫でることもかなわず、ゼファードにできたのは、毛布をにぎりしめる彼女の指にそっと手を添えることだけだった。

「……私が消えたら」

「消える?」

 唐突なアーラの言葉に、ゼファードは瞠目した。アーラはうなずいた。

「そう。死ぬのではなくて、跡形もなく消えたら」

――アーラが、消える? 

 そんなこと、あってたまるか。しかし天幕の中にいる彼女は、言われてみれば希薄なのかもしれなかった。透けているわけでも触れられないわけでもないのに、ふとしたことで存在が零れ落ちてしまいそうな。人知を超えた何かに、さらわれてしまいそうな。

――“あちら”へ、さらわれてしまいそうな。

「私が“あちら”へ帰ったのだと、思ってね」

 ゼファードはうなずかなかった。その代わり、アーラをつかまえておけるように、彼女の指に添えた手に力をこめた。

――ここは、場所が悪いのかもしれない。

 アーラが悪夢を見たのも、こんなにも弱気になっているのも。

 迷信を信じるたちではないが、ことに異世から転げ出てきたというアーラにおいては、慎重になる必要がある。

 ゼファードはアーラに言われたからではなく、彼女を「この場所」から一刻も早く連れ出すために、出発を決意した。


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