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69、月光

 さあ、何があったのか話してくれ。言いながらユンナは夜と部屋の間にカーテンを閉め、もどってくるとブランデーをグラスに注いだ。密談にふさわしく部屋は薄暗く、ランプがぼんやり淡い光を放っている。

 アーラの血をじっとり吸ったヴェストコートをぬがされたジルフィスは、長椅子に座り、ぼんやりしていた。ゾルデ卿がユンナに遺した屋敷は静かで、まるで世界に二人だけしか残されていないような気がするほどだった。

「間諜に漏れる心配はないよ。おやじさまは、そういうことには徹底的だったから」

 交易商であったゾルデ卿は、敵に事欠かなかった。その商才と富は羨望とともに嫉妬を買い、賊の目にも獲物と映った。

 間諜がひそむ隙間もなければ、盗人が忍び込める足がかりもない。声が漏れる隙間もない。その上ずいぶんとぶあつい壁とガラスなので、部屋の中にいなければどれほど耳を澄ましても聞こえないのだとユンナは請合った。

「ジルフィス」

 彼女は、ゆっくりと彼の名を呼んだ。ジルフィスはまるでアーラに呼びかけられたような気がして、目を瞠った。たちまち目の前にいるのはアーラではなくユンナ・ゾルデだと知れたけれど、彼女は静かに、微笑みの一歩手前のような表情で、ジルフィスを見つめていた。

 それはすべてを受け止め、受け入れる用意がある大きな器のように、ジルフィスには映った。

 思えば、いつだってそうだった。ユンナがジルフィスの話を聞いてくれなかったことなどなかった。話した端から茶化されることはあったが、悪意などは微塵もなくて、ともに笑い飛ばせるか、そうでなければ珍しく地獄の底まで打ち沈みそうになる彼を引き上げるための、気遣いある茶化しかただった。

 ついに、ジルフィスは語りだした。語るというよりも、中で渦巻いているわけのわからないものをすべて出してしまいたかった。

「裏切り者は、クオードだった。もっと早く、陛下がつきとめていたならよかったのに」

 脈絡も順序もなかった。ただ思ったこと、思いついたこと、胸の中でわだかまっていたこと、ほとばしる叫び、悲鳴、すべてをジルフィスは吐き出した。ユンナはやはりよい聞き手で、ジルフィスが言葉に詰まったりつかえたりすると、過不足のないやりかたで上手にときほぐし、するするとジルフィスから引き出していった。たった一つでさえ、ジルフィスの言葉や思いを否定することは口にしなかった。

「ゼファの寝床に潜り込んだボーロックの娘が仮置きの牢で死んだときだって、クオードは充分に怪しかったんだ。それなのに、俺たちは追及しなかった。クオードだってわかってしまうことが、嫌だったんだ」

「クオードは初めから、アーラに好意的じゃなかった。アーラを傷つけるかもしれないってことは、可能性として考えられたのに」

「それでもまさかクオードが、ゼファードを悲しませるだなんて信じられるか? 信じられない。考えられなかった。アーラのことが嫌いでも、アーラを傷つければゼファが悲しむ。そんなことが、あいつにできるだなんて」

 胸に脳裏に浮かんだ物事をすべて吐き出してしまうと、すべてが億劫になって、ジルフィスはただ沈黙した。ユンナがブランデーを継ぎ足したので、黙ったままそれを一息に飲み干した。

「ジル」

 そっと、ユンナが声を出した。

「どうしてクオードがアーラを刺したか、知りたい?」

 億劫だが、少しだけ視線を上げてユンナを見た。

「どうしてか、だって? 奴はアーラが魔女だからだとほざいたんだ。美しくもなくどこの馬の骨かもわからないのにゼファがアーラに心を砕くのは、手練手管でたぶらかされたからだって。侮辱罪だ。馬鹿げてる。アーラにはそんな手管なんざ、必要ないんだ。ただアーラだというだけで、俺だって惚れたんだ」

 うん、とユンナはうなずいた。

「知ってる」

「……ゼファだってそうだ」

「ああ、そうだな」

「アーラだから、ゼファだって惚れたんだ」

 あえてもう一度、ジルフィスはそう口にした。口の中に広がる苦い味を同時に味わっているかのように、ユンナの表情もゆがんだ。

 彼女は指を組み、またほどいて、決意したように口を開いた。

「ただ、クオードはそう認めたくはなかったんだよ。殿下が女だなんて生き物に心を動かされたとは、認めたくなかったんだ」

 ジルフィスには、ユンナが何を言っているのか、見当をつけるのが難しかった。

「……何が言いたい?」

「クオードは、これまでに一度だって女に心を寄せたことはないだろ? 花街に付き合ったことはあるかもしれないがね。クオードが心から崇拝していたのはただ一人、ゼファード王子殿下だけだったからだ」

 ジルフィスの意識は一瞬、空白になった。

――なんだって? 

「殿下が妃を迎えるのも、どこかの名家の令嬢との政略結婚なら許せたんだろう。王家に跡継ぎは必要だからな、どうしたって女がいる。夫婦間に愛がなくてもなすことがなされれば、跡継ぎは生まれるだろう。そういった冷え切って割り切られた関係なら、クオードは許せた」

――許せた? 許すとか、許せたとか、何なんだそれは。

 血潮が引いてゆく。それなのに、ユンナの口調は変わらない。冷静だ。

「だがどうだ? アーラお嬢さんはそんな、プライドが高いばかりで化粧のにおいが鼻につき実家の財力をかさに着た令嬢なんぞではなかった。ゼファードは……これまで女性に淡白だとクオードの目に映っていたゼファードは、アーラに惚れてしまった。それが、クオードには耐えられなかった。清廉なゼファード殿下は妖婦アーラにたぶらかされたのだと自身に言い聞かせ、そう思い込み、ゼファードの目を覚まさせようとして――」

「ふざけるな!」

 思わずジルフィスが叫ぶと、ユンナはどこかがひどく痛んだような顔をした。

「ふざけるな、ふざけるな! そんな、そんな、そんなことで、ああ」

 クオードの死に際の言葉が思い出されて、ぞわりとした。

『あなたの剣に貫かれて死ねるなら。……ずるずると汚く生きるつもりなど、ありません』

 なんて身勝手で、傍迷惑で、勘違いも甚だしくて。

 そんなもの、個人の主義主張の範疇だ。許す許さないなど思うのは勝手だが、許せないからといって手を下していい問題ではない。ましてや、アーラに。

 ユンナはそれまで座っていた椅子から立ちあがり、ジルフィスの前までやってくると、その足元に膝をついた。

「……胸の悪くなるような話をして、悪かった。私を怒鳴ってなじって気がすむなら、いくらでもそうしてくれ。なぐってもいいぞ。ジルの気がすむなら」

 いつなぐられてもかまわないというつもりなのか、片眼鏡をはずしてテーブルに置いた。

「おまえは」

「クオードは、アーラお嬢さんに嫉妬していたんだよ。そして、お嬢さんには何をどうしたってかなわないとじわじわ知るに至って、亡き者にしようとしたんだ。お嬢さんがいなくなれば、お嬢さんを殺したクオードを殿下は憎むだろう。その憎しみで、いっぱいになるだろう。それがクオードの望むところだったのさ。クオードは殿下の心をおのれのほうへ傾けたかったんだ。そうでなければ、クオード自身が作り上げた、『清廉で何ものにも情をかけず惑わされない殿下』という偶像を、邪魔者を排除して守りたかったのかな? どちらでも、似たようなものだが。

――さあ、終いまで言ってすっきりした。私の戯言が気に入らなかったら煮るなり焼くなり、お好きにどうぞ」

 ユンナは目を閉じて、平手を打ちやすいように頬を差し出している。ジルフィスはユンナの産毛の光る頬をまじまじと眺めた。カーテンの隙間から、白く月光が差し込んでいる。

「……ユンナ」

 どれほどの沈黙の後だろう。ジルフィスが呼び掛けると、ユンナは目を開けて小首をかしげた。

「なんだい?」

「……どうして」

「どうして?」

「どうして、おまえは俺にこんなにやさしいんだ?」

 ジルフィスは心底不思議でたまらずに尋ねたのに、ユンナはとろけるように微笑んで、こう言った。

「ジルフィス・グラントリーともあろう者が、まさか真顔でそう問う日が来るとはね。本当に、わからないのか? こんなもの、決まっているのに」

「決まっている?」

「ああ、そうさ」

 ユンナの両腕が伸びて、ジルフィスの両頬をふわりと包み込んだ。その指の細さとやわらかさを感じて、ジルフィスは困惑した。

「私がだれにでも分け隔てなくやさしいだなんて思ってるわけじゃないだろ? 私は好きでもない奴にやさしくしてやれるほど人間ができてもいないし、お人よしでもないからな」

 ユンナの手のひらが温かい。膝立ちになったユンナの顔が、すぐ鼻先にある。こちらをのぞきこむ彼女の目に、ジルフィスが映っている。

「あんたがアーラに惚れてたって、全然かまわない。でも私は初めて会ったその時から、ジルフィス、あんたにぞっこん惚れ続けているんだよ」

 だからこうやって特別やさしいのはあんただけの専用だと、ユンナは言った。いつしか視界がにじみ、ぼやけて、ぼたぼたと雨が降るように膝にしずくが落ちたことで、ジルフィスは自分が泣いていることに気がついた。

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