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68、悲愴

 ふっつりと消える。五感も、意識も、体の重みも、存在も。



 ジルフィスは瞠目した。

 腕の中から、アーラが消えた。何もない。

 亡骸すら残らなかった。

 かろうじてこれが夢ではないと告げているのは、じっとりと重く血を吸い込んだヴェストコートの裾だけだ。

 ただ理解ができず、答えを求めて視線を上げる。すると、かたわらの従弟と目が合った。

「アーラ、は」

 アーラはどこへ行った? どうなった? 

 従弟が知るはずないとわかってはいても、訊かずにはいられなかった。もちろん答えは無く、ゼファードも紙のように白く蒼ざめた顔でジルフィスを見返すばかりだ。

 しかし背後に身じろぎする気配を感じた途端、その呆然としていたゼファードの表情が冷たく引き締まった。ジルフィスにしてみれば、今となっては、表情を引き締めることすら億劫だった。だから彼は、矢のごとく振り返って倒れている咎人に歩み寄るゼファードを、アーラをかかえていた姿勢のまま、ただながめていた。

「クオード」

 ゼファードによばれると、クオードが顔を上げた。血でよごれた顔、髪、近衛の隊服。本当にこれが、親しくしてきたクオードなのだろうか。そうでなければいいのにと、ジルフィスは意味のないことを思う。

 ゼファードが口を開いた。

「致命傷にならない程度に浅く斬った。鍛えてある貴様なら、その程度の傷で口が利けぬこともないだろう。……なぜ、アーラを傷つけた? 末弟派の、誰の差し金だ?」

 かつて身内であったものを見下ろすゼファードの声は限りなく冷徹で、容赦がなかった。

 クオードがわずかに身を起こすと、ゼファードがその喉元に切っ先を突きつけた。クオードは一抹さえもひるむことなく、その切っ先とゼファードの群青色の双眸を見上げた。

「誰の差し金でもありません」

 かすれる声で、しかしきっぱりとクオードは言った。

「自分は誠心誠意、幼いころより殿下にお仕えしてまいりました。身も、心も、忠誠も、すべてを捧げてまいりました」

「……その忠義者がなぜ、俺の大切な従姉妹に害をなした」

 ゼファードのその問いには答えず、クオードは先を続けた。ところどころかすれ、ひび割れているものの、とても手負いとは思えない落ち着いた声音と話しぶりだった。

「殿下には少しの障りも無く、まっすぐに歩んでいただき、次の王としてお立ちいただけるよう、陰ながら尽くしてまいりました。殿下が申し分の無い妃を娶られ、御子をなされ、やがて玉座にのぼられるさまを、自分は――」

「ふざけるな」

 ゼファードは声を荒らげなかった。その代わり地底で燃える氷のように静かで、ひそやかで、凶暴さを秘めた口調だった。

「小さい障りなら数え切れないだろう。だがいったい、末弟派と今日の貴様のほかに、俺にどんな重大な障りがあった?」

 クオードの目には、恐怖も罪の意識もそのような類のものは一切浮かんではいなかった。そして、むしろ教え諭すようなようすで、ゼファードに告げた。

「殿下は、たぶらかされたのです」

 アーラという娘に。

 魔女に。

「王族の婚姻は、情に偏ってはならぬもの。それをよくご承知のはずの殿下が、あんな美しくもなく後ろ盾もない、どこの馬の骨とも知れないたった一人の娘のために心をくだくなど。娘のあやしげな手管によってたぶらかされたとしか思えません」

 それを聞き、ゼファードの切っ先がわずかに揺れる。ただでさえ蒼ざめていた肌が、本当に血が通っているのかと危ぶまれるほどにさらに色をなくした。怒りのためだ。

「アーラが魔女? 貴様こそ、いったい何にたぶらかされた? 魔女だなど、どれほど時代遅れで馬鹿げた罪状かよくよくわかって言ってるのだろうな」

「それに」

 ゼファードの詰問を横へ置き、話を続けようとして、クオードは初めて苦しげに息をついた。

「それに、あなたのお命を守るためでした」

「……魔女から俺を守るだと?」

「いいえ。末弟派の粛清からです」

 〝粛清〟。

 名では正義と潔癖さを装いながら、その実は残虐で血に飢えていて、反感をその持ち主ごと葬ろうとする。一種の狂気のような行い。

「末弟派は……殿下にありもしない罪を作り上げました。殿下だけにではなく、末弟派に与しない者、末弟派を危うくするおそれのある者たちすべてに、手間と念の入った罪とその証拠を用意したのです」

「知っている。辺境地の不正帳簿と、隣国の有力者の買収だろう?」

 クオードは答えなかった。

「末弟ヴァーディスは、証拠はそろっている、殿下を絞首刑に処さねばならぬとほざきました。陛下も、グラントリー卿も、急進的なヴァーディスを嫌ういくつかの旧家の当主も、皆々吊るすのだと。政権移動の準備は調いつつあるのだと。

 「だが、おまえの行動しだいでゼファードの命だけは見逃してやらんでもない」と、持ちかけられたのです。その取引が、アーラ嬢を亡き者にするということでした」

「つまりヴァーディスの差し金だろう」

「……いいえ。自分の意思です。あの危険な娘を排除することで、結果として殿下のお命をお守りできるならと、思ったまでです」

「詭弁はたくさんだ」

 ゼファードは冷ややかに言い捨てた。

「そろそろ、言い訳も言い尽きたころだろう。絞首になるか斬首になるか知らんが、裁きが下るまで、獄舎で静かにしているんだな。傷が化膿しない程度の手当ては許してやる」

 アーラを傷つけられた暗い怒りと、幼いころから信頼を寄せていた者の裏切りへの哀しみと、またその者がこれは裏切りではなく忠義からの行いであると弁明する不条理さとに、ゼファードは震えた。その震えが表に出ないように押さえ込み、抑え込み、まだ動けないままでいるジルフィスを振り返った。

「おいジル、こいつを引っ立てていくぞ」

「その必要はありません」

 クオードは言った。

 そして、一瞬の出来事だった。

「あなたの剣に貫かれて死ねるなら。……ずるずると汚く生きるつもりなど、ありません」

 クオードは喉元に突きつけられていた長剣の切っ先を握り、そのままみずからの喉に突き立てたのだ。

 最期の呼吸と共に血が泡立つ音がして、そして、終わりが訪れた。

 カラン、とゼファードが剣を取り落とした。

 その乾いた響きにはじかれたように、ジルフィスは立ち上がった。しかし膝が震えつんのめり、そのまま手と膝をつく。

 手元にアーラの姿も、影すらもなく、目の先には、つい先ほどまで友だと思っていたものの残骸が横たわっている。おのれの世界の崩壊を見ているようだった。

「ジル!」

 蒼白な顔で、従弟がこちらをうかがっている。返り血で、前身が点々と赤い。しかしどうして、これほどのことが起きたのに、従弟は二本の足でしっかと立っていられるのだろう? 

――アーラがいないのに。

――クオードの野郎に、奪われたのに。

――アーラは、もう、ここにはいないのに。

 いてもたってもいられなかった。

 ジルフィスは這うようにして、逃げるようにして、その場から駆け出した。背中にゼファードの呼び声を聞いた気がするが、立ちどまらなかった。あの場所には、もう、一秒たりともいられない気がしたのだ。

 ただ走って、走って、自分でもどこへ行こうとしているのか分からなかった。だが、走っている途中で、何者かに止められた。その様はまるで、泡を食った馬が恐慌状態になりむやみに駆け続けるのを体を張って止める、御者のようだった。

「どうした、何があった? ジル、私がわかるか?」

 頬を二度、すさまじく景気のいい音を立ててはたかれた。それで我には返ったものの、だからといって何の解決にもならないのだった。

「ユンナ」

「ああ、私だ、ユンナだ。ジル、いったい何があったんだ?」

 筆頭騎士にふさわしい作法どころか一般成人としての振る舞いすら吹き飛んで、ジルフィスはユンナ・ゾルデにすがりついた。

「アーラが」

「アーラが?」

「アーラが、失くなってしまったんだ」

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