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67、運命

 影が動いた。

 悪意と殺意のこもった視線が突き刺さる。

 可能なのに避けなかったのか不可能で避けられはしなかったのか、それは永遠にわからない。だが、「避けようとはしなかった」のはたしかだ。

 アーラを突き刺した視線の刹那のあとに、無慈悲な金属がアーラの脇腹を貫いた。



 起こるだろう〝事件〟について真っ先に気づいたのはアーラだった。

 ゼファードはそちらへ背中を向けていたし、ジルフィスの意識は――騎士としてまったく褒められたことではないが――腕から降りたアーラだけに集中していた。

 試みたなら、もしかしたら、万に一つくらいの確率で非常に上手く逃れることができたかもしれない。だが、相手は得物をあつかう玄人なのだ。おそらく切っ先が揺れることも、仕損じることもない。

 それに、アーラがわずかでも動くことで、すぐそばのゼファードに害が及ぶ可能性もあった。もしもそうなってしまったなら、決しておのれをゆるすことはできないだろうと彼女にはわかっていた。

 たったひとたびまばたきするよりも短い間に、それらのことをすべて悟った。


 だからこそ、「避けようとはしなかった」。

 甘んじて受けたのだ。


 クオードが繰り出した長剣の刃が、左脇腹を貫いている。

 熱いような冷たいような、異様な感触だった。

 ジルフィスやティアーナの言うとおり、鯨骨の胴着を着ていたなら、ひょっとするとこんなことにはならなかったかもしれない。そのような、いまさらでは仕方のない事柄に思いをはせ、腎臓は無事だろうかとちらと考えた後、視界に火花が散った。

 ふらついて後ろざまに倒れかけたことで、激痛が走った。ジルフィスの腕で受け止められたと同時に、声にならない悲鳴が脳裏で、喉で、耳の中で、わんわんと響く。ジルフィスが持ち上げた彼の左手の袖口には、赤いしみ。

「「アーラ!」」

 驚愕と悲嘆と絶望と怒りがむき出しのままの叫びがこだまし、ジルフィスは両腕でアーラを守るように抱き、ゼファードは抜刀した。

 ゼファードの剣が鞘から抜かれ、そのまま動きを止めることなく下から上へ、斜めに斬り上げられるのを、アーラは眺めていた。このときは、まるで特別な視力が与えられたかのように、すべてのものがゆっくり、そしてとてもくっきりと見えた。

 クオードの目に宿った感情を、アーラは呪いのようにはっきりと見てとった。

 もしもクオードが彼らしく、冷徹で残酷で任務に忠実なやりくちで凶器を繰り出したなら、もっと気が楽だった。しかしアーラの網膜に焼き付けられた〝それ〟は、ずいぶんと単純で、短絡的で、激情的で、それでいてたいそう腑に落ちるものだった。

――ああ。

 察せざるを得なかった。

――ゼファードを奪われたくなかったんだ。私に。

 嫌悪、敵意、憎悪――……嫉妬。

――私が、疎ましかったんだ。

 手袋の上から、指の爪の先に軽く口付けるのは単なる儀礼的な挨拶だ。しかし手のひらの側の、やわらかな指先への口付けは、かなわぬ恋の相手――高嶺の花に思いを告げる口付けだと聞いた。そして、教えられたことこそないが、手首の裏への口付けはおそらく、さらに深く強い思いがこめられたものに違いなかった。

――だから。

 彼の中で、耐えて矯めてこらえてなだめてきたものがついにぷつりと音を立てて、ほとばしったのだ。

 近衛の衣装に、ゼファードの剣によって真紅の一線が刻まれ、クオードは膝からくずおれた。

「アーラ、アーラ」

 その間、ジルフィスはひたすらにアーラの名を呼んでいた。ヴェストコートの裾で傷口をおさえてはいるものの、血は止まらない。ヴェストコートが見る見る赤く染まる。ジルフィスはまるで自分自身が死ぬような真っ青な顔をしていたので、アーラは何とか微笑んで見せようとしたのだが、顔の筋肉がなかなかうまく動いてはくれなかった。

「医者を呼んでくる」

 こちらをのぞきこむ顔が、ジルフィスだけでなくもうひとり増えた。ゼファードがかたわらにかがみこんだのだ。

「すぐにもどる。ジル、アーラを見ていてくれ」

 立ち上がろうとしたゼファードを、何とかして引き止めなければとアーラは思った。それは、自分の存在が、この世界につなぎとめられているという感覚が、ずいぶんと薄れてしまっていると気づいたからで、ああこれが死を悟るということなのかもしれないと思った。

「ゼ、ファ」

 苦労しながら、何とか音にする。ゼファードははっとしてまた膝をつき、アーラのほうへ顔を寄せた。

 先ほどのクオードといい、今のゼファードといい、人間の目というものは一時にこんなにもたくさんの感情をうかべられるのだと、アーラは初めて知った。

 藍色の瞳に行き交う感情に見合う言葉が見つからなくて、アーラもただ、見つめ返した。

 意識が薄れゆく。

 体もなぜだか、軽くなってゆくような気がする。

 この世の外側からはたらく未知の力で、アーラという存在がここから引き剥がされてゆく。

「ジ、ル」

 呼ぶと、ジルフィスの琥珀色の瞳が大きく揺れた。こんなにも動揺してくれていることがうれしくもあり、悲しくもあり、大いに心配でもあった。

「ありが、とう」

「アーラ!」

 ジルフィスの声。激しい口調なのに、おそらく大きな声であるはずなのに、とても遠い。

 霞がかかった聴力と視力で、アーラはゼファードを探した。黒髪と藍色の相貌が霞から垣間見えて、少しだけ安堵した。ゼファードの手のひらがアーラの力なく垂れた手を包む。その温みを感じたいのに、触覚までもが鈍り薄れてきているようだ。


 そうして薄らいだ感覚は突然に、〝無〟となった。

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