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66、前奏曲

「おとなしいね?」

 意外そうに、琥珀色の双眸で顔をのぞきこまれた。アーラは横目でちらと見返しただけで、すぐに視線をそらした。

 もちろん、その腕からこの体をおろすように訴えようかとも考えた。しかし、ジルフィスはそうしたが最後、アーラが逃げ出すとでも思っているに違いないのだ。アーラをかかえた両手は膝裏と腰をがっちりと固め、彼女を捕虜にしている。

 どんな説得も暴言も、ジルフィスの決意の前には無意味だと思われた。それに、アーラが暴れて力ずくで脱走をはかり、万が一成功しようものなら、それはつまりジルフィスの腕から転げ落ちて床にしたたか体をぶつけることに他ならない。それならば、こうなってしまったからにはおとなしく、ジルフィスの気のすむように運ばれてやるのがいちばん面倒が少ないのだった。

――コルディアが、私は無事だってちゃんとゼファに伝えてくれてるといいけど。

 命に別状のない単なる脅しとはいえ、毒を盛られたには違いないのだからジルフィスの考えも仕方がない。仕方がないとはいえ、こうして無力をかみしめながら、首根っこをつかまれた子猫のようにグラントリーの屋敷に連れ帰られるのは、はなはだ不本意だった。

 そのうえ、「仕方がない」で済ませられる事柄ばかりでもないのだ。

――何とかしてもどってこないと。王子殿下の家令がおびえて引っ込んだまま出てこないんじゃ、末弟派を調子付かせるだけだわ。

 末弟派が大きな動きを見せようとしているこのときなのだから、なおさらだ。

 セリスティンからもたらされた暗号の情報によれば、例の不正帳簿は王城にあるはずで、ここでおくれをとったならせっかくの尻尾をつかみ損ねることになる。帳簿をめぐっての動きの一端でもとらえられたなら、末弟派をくじく大いなる一歩になるというのに。

――それに、それだけじゃない。

 手をこまねいていては、悪夢の中の乙女のように、の皇子のように、大切な人たちが吊られて縊られて首を、命を…………失ってしまう。

 どうすれば穏便に、しかも迅速にここにもどって来られるかを考えては打ち消し、検討しては穴を見つけているうちに、アーラをかかえあげたジルフィスは揚々と階段を下り始めた。

 無論、安全面においてジルフィスを信用しないわけではなかったが、段を下りるたびに体が上下にはずむ。視界が揺れて仕方がないので、腹立たしさを感じながらも、アーラはジルフィスの首にしがみつかずにはいられなかった。

「ずっと、そうしていてくれればよかったんだ」

 そんな言葉がぽつりと降ってくる。

「俺を頼って、俺に預けてくれたなら」

――それができるなら、私だって今よりいくらか苦労が少なくて済んでるわよ。

 誰かにすがるのも甘えるのも、妥協するのも、アーラが得手としていたならおそらく、今現在とは大いにちがった人生を歩んでいることだろう。しかし実際はそれとは真逆で、そう生まれつき、尚且つそう自分で育て上げてしまった気性なのだからしかたがないのだ。

 アーラは努めて平静を保ち、ジルフィスの声を聞き流した。


 この後五分もたたないうちに、立て続けに、自分たちの運命に関わる重大きわまりない出来事が起こるとは、アーラは考えもしなかった。

 毒を盛られ、倒れ、ジルフィスの小言を食らう程度は計算のうちといえたけれども、命をねらわれていることさえ承知していたけれども――――まさか、〝そのようなこと〟になるなどとは。


 階段の踊り場についたところで、アーラは下の階から、こちらへ上がってくる二人を見とめた。いち早くその一方がアーラに気がつき、顔をほころばせようとしたかに見えたが、すぐにその笑みは引っこんだ。

 ゼファードとクオードだった。

「アーラ?」

 おそらく、コルディアから報告を受けて、アーラの部屋まで様子を見に来るところだったのだろう。しかし寝台で休んでいるはずのアーラがこうして目の前にいる。しかもそれはアーラが回復してみずからの足で出てきたのではなく、ジルフィスによって運び出されている有様だった。

 ゼファードは何ともいえない面持ちになり、ジルフィスを見上げている。対するジルフィスは、得意げともいえる口もとの歪めかたをして、アーラを支える手に力をこめた。一方、ゼファードのかたわらに控えたクオードはといえば、ゼファードとジルフィスを交互に見やり、不快そうに顔をしかめている。

 アーラはため息をついて、ジルフィスの首筋につかまっていた手で、彼の背中を軽く打った。馬の首筋をどうどうとたたくように。

「ジル、おろして」

「どうして?」

 すっとぼけるジルフィスにアーラは、

「王子殿下の前で、家令がこんな情けない格好でいられるわけがないでしょう」

 冷静でまっとうな主張をし、有無を言わせぬつもりで冷たく睨め上げた。これでは、自分を気遣ってくれているジルフィスにあんまりな仕打ちのような気がしたが、ここは毅然としなくては、絶対にジルフィスは聞き入れてくれないだろうとわかっていた。

 思ったとおり、ジルフィスはしぶしぶではあったものの、承知してアーラを踊り場に立たせてくれた。少々足元がおぼつかないが、一人で立てないわけではない。

「部屋で休んでいなくて、大丈夫なのか?」

 そうたずねるゼファードに、アーラは肩をすくめて、

「私のこのお兄様が、ひどく兄馬鹿でいらしてね。王城にいては、またいつ何時どんな目にあうかわからないから、グラントリー屋敷に連れ帰るといって聞かないのよ。私は強硬に反対したのだけど」

「安全だとジルがうけあうなら、屋敷にこもるのもひとつのやりようだろうな」

 ゼファードはアーラの前に立って、彼女の頬に手のひらを当てた。ジルフィスが不機嫌になるのが気配でわかったが、アーラはその手を拒まなかった。

「安全なら、ね」

「どこも完全に安全とはいえなくなるだろうな」

「そうでしょうね。どこにいてもきっとねらわれる。そして実家に引っこんだという醜聞がつくだけ、逃げ帰るのは損だと思うの」

「損にならないなら、俺はいくらでもアーラが屋敷に隠れてくれればいいと思うよ」

 そしてゼファードは、アーラの手をとり、その手首の内側に口付けた。


 そのときだった。

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