6、物語り
「どのような物語りをご所望でしょうか」
――さっさと役目をすませて、さっさと帰ろう。
ソファとクッションのもちもちとしたやわらかさは魅力的だが、初対面の相手――しかも王子殿下だ――と二人きり。気まずさと緊張感が伴うこの空間からは、一刻も早く早く逃げ出したかった。
「師について語るすべを学んだこともないわたくしのつたない業ではございますが、できるかぎりご希望にそうように努めます。お申し付けくださいませ」
王子ははじめて、書類に走らせていたペンを止め、じっとアーラを見つめた。
アーラは心持ち目を伏せた。直言を許されたのだから、目を合わせたくらいで機嫌を損ねることはないだろうが、まっすぐに見返すのもぶしつけで不敬だろう。なにしろ、王子殿下であらせられるのだから。
建国祭でバルコニーに登場した国王陛下が色素の淡い髪だったので王子もそうだろうと、当然のように思い込んでいたアーラにとって、ゼファード王子の髪がつやのある漆黒だったのは新鮮な驚きだった。
白い額にさらさらとこぼれた前髪。長い睫毛にふちどられているにもかかわらず甘さはなく、目元は涼しい。鼻は高すぎず低からず。世の女性を狂気に駆り立てるような絶世の美貌ではないが、端整と評せられるのはたしかな面立ちだ。
伏せた目をちらと上げて様子を伺ったそのわずかな時に、王子とアーラのまなざしがぶつかった。
アーラが息を呑んだ頃には、そのまなざしはまた書類へと戻っていた。
瞳の色が、アーラは王子の容貌の中で一等気に入った。青い瞳だが、陽気な碧眼でも氷のような青灰色でもない。深く遠く澄んだ、深海の青。
――平凡な褐色の私の目とは大違い。
再びカリカリとペンを走らせながら、王子はのたまった。
「適当でかまわない。おまえが俺にふさわしいと思う物語りをすればいい」
――つまり、何でもいいから勝手に始めろということね。
アーラはさとられぬように胸のうちだけでため息をついて、当たり障りがなく、且つ恋愛物でも悲劇でも喜劇でも長編でもないものを脳内で検索した。
「それでは、グランヴィールを抱きし世界とは異なる外つ国に伝わる、原初の物語りをいたしましょう」
アーラは雑多につめこんだ記憶の引き出しに埋もれた、北欧神話を引っ張り出した。戦乙女ヴァルキリーや神々の黄昏――世界の終わり“ラグナロク”がよく知られている北欧神話だが、世界のはじまりを謳う物語も印象深いのだ。
固有名詞を省き、グランヴィール人の王子にわかりやすいように言葉を選び、また、納得しやすいかたちに話を再構成して紡いでゆく。
「……原初のころ。世界はまだなく、混沌が渦巻くばかりでした。その混沌の一部が凝り、一頭の巨大な牝牛が生まれました。牝牛は混沌が凍った氷をなめたことにより、強い霊気を宿しました。その霊気が腹の中でかたちをなし、牝牛はやがて一人の巨人を産み落としたのです」
王子は書類を処理する手を止めなかった。物語りを聞いているのか聞いていないのかわからない。けれど呼びつけられた語り手であるという立場上、アーラも物語りを止めなかった。
「途方もなく大きいその巨人は、両性具有でした。巨人は自分自身と交わって、三柱の男神を生みました。男神たちは自分たちで世界を支配するために、おのれの親である巨人を殺してしまいます。そして巨人の亡骸から、自分たちが治めるべき世界を造り出したのです。巨人の血潮を海に、肉を大地に、頭蓋を天に、脳髄を雲に、骨を山に、歯を岩に、髪を草木にして」
「血なまぐさい創世神話だな」
王子がぽそりとつぶやいたので、アーラは驚きを顔に出さないために最大限の努力をしなければならなかった。
聞いていたのだ、王子は。
アーラの物語りを。
「たしかに美しいと申せる創世ではございません。ですが命であれ物事であれ大きなものを造り生み出す際には苦しみがつきもの。人であってもそうなのですから、世界を成すともなれば、血なまぐさいことも多分にございましょう」
王子はふんと鼻を鳴らして、頬杖をついた。
「続けろ」
ペンも書類を繰る手も止まっていた。
「……天地を分け、世界を生み出した三柱の男神たちは、今度はだれが世界の主となるかで争いを始めました。結局末子が兄二人を倒し、世界の主神となったのです。この主神は戦と詩作に秀で、知識欲はすさまじく貪欲でした。すべての叡知を得るために片目を差し出し、力ある文字を手に入れるために己が首をしめてぶら下がり、みずからの体を槍で貫いたほどです」
「そんなことをして、死なないのか」
「ええ――もう少しで、神とはいえ死ぬところでした。しかし、首を絞めていた縄が切れたので助かったのです」
「都合のよいことだな」
王子が、笑っていた。唇のはしだけでだが、笑ったことにはちがいない。アーラは一礼した。
「この主神は、全知全能のもっとも畏れられるべき神とされておりますが、巨人の首を蜜酒につけて未来を語らせた話や、他種族の女神と戦死者の魂を分ける契約をした話など、興味深い逸話もたくさん伝えられております。それらはまた、機会がございましたら謹んで披露させていただきますが、こたびの異世の原初神話はこれまでにございます」
再度深く頭を下げると、アーラの目の前に金色の小さなものが放られた。床で跳ねて、チリンと涼やかな音を立てる。
「受け取れ。褒美だ」
クラーレン金貨だった。