63、コルディア
死んだわけではないことは――死にかけたわけでさえないことは、すぐにわかった。
〝そこ〟はグランヴィールだった。目に映るすべてが、天井も照明も壁紙も、空気の色にいたるまでグランヴィール的だった。〝あちら〟の集中治療室にいるわけでも、〝あの世〟にいるわけでもなさそうだ。
毒を口にしてしまったにも関わらず、悪夢の中で首の折れた乙女が請け合ってくれたように〝あちら〟へ引き戻されはしなかったのだから、おそらく死ぬほどの毒ではなかったのだろう。
アーラの体は天蓋付きのベッドの上にあった。枕からはかぎなれた紫草の香りがする。先ほどまでいたのと同じ、アーラのための客間だ。
すぐ傍らに座っている人物は、ゼファードでもジルフィスでも悲鳴を上げていた年若い女中でもなかった。はじめ誰だかわからなかったのだが、わかったときにはあらゆる意味で意外すぎて、わけがわからなかった。
「ようやくのお目覚めですわね。まさか、再会がこんなかたちになるとは思ってもみなくてよ」
豊かな巻き毛の少女はつんとした態度で、しかし目にはおかしげな光を踊らせてアーラを見下ろしていた。
「コルディア、さん?」
先の夜会で出会ったとき、セリスティンと連れ立っていた彼女は、そらおそろしくなるほどの美貌と個性を見せびらかしていたものだ。首筋や肩をむき出しにして黄金色の肌をあらわにし、豊かな胸をコルセットで強調し、実に装飾的に見せていた。微笑みはあでやかで、非日常的で、存在自体がなぞめいていて、アーラは呆気にとられたものだ。
しかし今目の前に座っている彼女は、とても同一人物だとは思えなかった。実用的なえび茶色のブラウスに、同色のロングスカート。夜会では強調されていた胸元は、いったいどのようにたたんでいるのか、品よく見事にブラウスの下に収まっている。巻き毛はうなじで無造作にたばねられただけで、面立ちはもちろん相変わらず美しいのだが、挑発的なあやうさがなりを潜めているおかげで、「ただの美人」ですませてしまえそうだ。
「コルディアさんが、どうしてここに?」
するとコルディアは文句のつけようのないすばらしい眉をひそめて、アーラを見た。
「仮にも王族の血を引くお姫様がわたくしごときに〝さん〟付けなんてしてよろしいわけがあって? 臣民ですもの、呼び捨てていただかなくては」
丁寧なのか粗雑なのか理解しがたい口調で毒づくと、コルディアは冷やした布でアーラの額の汗を拭いた。
「身分をわきまえていただきたいわ」
コルディア嬢こそ身分をわきまえているにしてはくだけていると、アーラは思った。
――もちろん、くだけてくれていたほうがありがたいけど。
「ご気分はいかが? すぐ解毒できたから、よろしいとは思うけれど」
「解毒? あなたが?」
人は見た目によらないとは言うものの、とても白衣の天使のようには見えない。
コルディアは凄みのある笑みを浮かべ、アーラの襟元を整えるふりをしながらかがみこむと、唇がアーラの耳に触れるほどまで顔を寄せ、低い声でささやいた。
「わたくしは生まれも育ちも卑しくて、子どもの頃から太陽の下を歩けないような暮らしをしてきたの。流れ者よ。わたくしを買ったらしい男は町々で見世物小屋を立てて、金を取っていたわ。……両親の顔? 知らなくてよ。物心ついたときには仕込みが始まっていて、見世物としてではなく商品として値が付いた日をはじめに、わたくしは標的の寝床へやられるようになったのだもの」
アーラは黙っていた。言葉をはさむことも、相づちを打つことすらできなかった。
「わたくしのように美しい子どもは、とても人気があったの。こんなふうにめずらしい肌の色と、豊かな髪を持っていればなおさらのことよ。だからわたくしを拒むものなどいなかった。わたくしがもたらすのは、死だというのにね」
コルディアは低く笑った。
「わたくしでさんざん遊んで、満足の眠りに落ちた標的の口元に一滴、垂らすだけでことは足りるの。わたくしは毒殺魔として訓練されたのよ。ありとあらゆる毒の名を覚え、効能を覚え、流れ者一座に富を引き入れるためにわたくしは死をばらまいたわ。セリスティンに拾われるまではずうっと、十年以上もそんな暮らしをしていてよ。だからわたくし、毒には一等詳しいの。あなたの焼き菓子に入っていた毒はもともと致死性のものではなかったし、安心していいことよ」
「……ありがとう」
コルディアは姿勢を戻して、にっこりした。
「お役に立てて光栄だわ。けれど、お礼はゼファード殿下におっしゃって」
「ゼファに?」
首をかしげるアーラにコルディアはうなずき、今度は布巾をすすぐふりをして、身をかがめた。万一の盗み聞きに備えているのだ。
「殿下はあなたの忠告を聞いてすぐに、セリスティンの元からわたくしを呼び出されたのよ。つかず離れず、アーラ様のまわりを見張っていてくれとおっしゃって。末弟派の手の者が自分やあなたのことを害しに来るといけないから、アーラ様を守ってほしいって。
アーラ様、あなた、わたくしをセリスティンのただの助手だと思っていて? わたくしは尚書局のユンナにこの名と身分を用意してもらってからと言うもの、ずっと王子殿下の密偵なのよ」
ようやく、さまざまなことが腑に落ちた。
それでは、ゼファードは悪夢の話を真に受けてくれたのだ。あれほどまでに心もとない、物的証拠のない、文字通り夢のような話を。そして、アーラのそばについていてもたいして不自然には見えない密偵を――若い女性であるコルディアを、よこしてくれたのだ。
まさか彼が、毒入りの焼き菓子が送り届けられることまで予見していたとは思えないが、毒にくわしいコルディアが近くに潜んでいてくれたのは、幸いだった。もしコルディアがいなかったなら、気を失ったアーラがどうなっていたのか、目覚めたときにこの客間にいることができたのかどうか、はなはだ心もとない。
――末弟派が……多分ヴァーディスの手下が、春の芽吹き亭のお菓子を買ってきて毒を盛ったのね。私を気絶させて、さらおうとでも思ったの?
姿勢を元に戻し、すすいだ布巾をたたんでアーラの額に乗せると、コルディアは言った。
「ねえ、わたくしに物語りをしてくださらない? 一度あなたのお話を聞いてみたいと思っていたの。だって、あなたはすばらしい語り手だってセリスが言っていたんですもの。引き受けていただけて?」
「どんな物語りがお望みなの?」
「毒の話がいいわ」
コルディアはけろりといってのけた。