62、砂糖と毒
砂漠で渇き果てて水を求める者が、あたえられた水甕の中身をむさぼり飲むように、ゼファードはアーラの両頬をしっかと包み込んで唇を合わせた。
水は渇きを癒して喉を満足させるが、アーラにはいくら触れていても充分ということはなかった。「苦しくないように努力する」とは約束したものの、結果に見合う努力ができているかを客観視するほどの余裕は彼になかった。
右手を頬からそろそろと下ろし、彼女の喉もとに指先を当ててみれば、その薄くはかない皮膚の下で血管か神経かが震え、その震えはゼファードをも震えさせた。耳元が燃えているかのように熱く、目の奥はちかちかする。再び酸素(もしくは制止)を求めてさまようアーラの手を、ゼファードは捕らえてにぎりしめた。
ゼファードは今、酸素でも水でもなく、花酒よりも甘く習慣性のあるアーラとの口付けをただただ摂取していたかった。それでも脳裏の片隅ではアーラを休ませるべきだとわかっていたから、もうほんの一息後に彼女を解放するつもりだった。
しかし彼の〝もうほんの一息〟は、いささか長すぎた。
一方、アーラはといえば、残念ながら甘く酔うにはいたらなかった。狂気じみた悪夢に幾度も警告を受けているために理性の一部がするどく醒めていて、それが「いったいいつまでこんなことをしているんだ」と針のようにせっつくのだ。
仮に万事平和な世の中で恋人がお互いのことのみに没頭できる環境にあったとしても、アーラという人間は甘やかな誘惑においそれと屈することはできないに違いなかった。生真面目が板に付きすぎてしまい、よほど自身を甘やかす事情がなければ〝たが〟がはずれないのだ。
生来の生真面目さと長年染み付いた勤勉さが総力合わせて牙をむき――比喩ではなく、がぶりとして――ゼファードの雨あられと降る口づけから彼女を脱出させしめた。
「……キスがほしいといったのはどこの誰だったか、教えてほしいんだが」
アーラの犬歯の一撃を食らって唇の出血に顔をしかめながら、ゼファードがぼやいた。〝もうほんの一息〟ほど前に彼女を解放したなら、不名誉な負傷をせずにすんだのだが。
「限度というものがあるわ」
アーラは視線を逸らして、そっけなく言い放った。しかし胸のうちでは、もう少しばかり加減すべきだったと、口の中に広がった血の味を飲み込んで反省した。
加減だけではない。彼がのたまうように、言い出したのはアーラのほうなのだった。思い出して恥じ入り、アーラはしおしおとした。
「ううん、そうね。ゼファばかりを責めるのはフェアじゃないわ。ゼファにはやるべきことがたくさんあるのに、時間を使わせてしまってごめんなさい」
「アーラが謝ることじゃない。俺は有意義なことのために残ったんだし、あとは俺が仕事の効率を上げればいいだけのことだ」
――有意義?
こちらを見つめるゼファードの目にたたえられた意味を、アーラははっきり汲み取った。それを自分も嬉しいと感じているのだと認めざるを得ず、彼女は心の中でうめいた。これで心おきなくヴァーディスと心中の真似事ができるかと思ったのに、潔くはない自分にほとほとあきれた。
「たしかに……有意義だったわ」
彼はもう一度試みようとするようすで彼女の唇をなでた。だが、ゼファードは王子にふさわしい鉄の意志をかき集めたらしく、それ以上時間の有意義な無駄遣いをすることなく、効率的以上に仕事をやっつけるべく部屋を立ち去った。
アーラは心臓が平常運転になるまで待ち、頭も平常運行するのを確かめて、やっと立ち上がった。
――ヴァーディスをやっつける計画を、具体的な形にしなくっちゃ。
よろよろとベッドへと向かう。人を害する計画を練るのは、推理小説の構想では楽しいものだが、それを実践するという前提がある現実でははなはだ滅入る作業だ。
一番の難関は、どのようにして誰にも気づかれず――ゼファードにもジルフィスにもユンナにも疑われず――ヴァーディスに接触を図るかということだ。
ベッドに突っ伏し、机上の空論的な数通りの方法を考えては却下し、これまで蓄積してきた城内の細かな情報をおさらいしながら最も破綻の少ない筋道をさぐっる。
不意に、ノックの音が響いた。無視しようかと思ったが、「あの、いらっしゃいませんか」とかけられた幼さの残る声に応えないのは、大人としてとても恥ずべきことのように感じられた。仕方なしに起き上がり、心持ち髪を整える。
そっと外の様子を伺うと、近頃入ったばかりの年若い女中が――ほんの十四、五歳だろう――優美なワゴンを押して心もとなげにたたずんでいた。
「お茶菓子をお持ちいたしました」
鍵を開けてやると、ワゴンをからからと押して入ってきた。少女がワゴンにかかったナプキンをとると、ほかほかと湯気の上がるおいしそうな焼き菓子があらわれた。
「春の芽吹き亭という店の者が、おかた様にと持ってきたものだそうです。こんなそっけないお菓子では謹厳卿のご息女に失礼だって、料理番が言ったのですけど、おかた様は春の芽吹き亭が大好きだから持って行けって、女中の先輩があたしに言ったんです」
まだ宮仕えに慣れていない少女が精一杯丁寧に話そうとしながら笑顔で差し出した焼き菓子と紅茶を、アーラは断れなかった。
――それに……なつかしい。
たしかにそれは、素朴で焦がし砂糖の香りがする春の芽吹き亭で人気の菓子で、食欲のないアーラでも食べられそうだった。
あの店で働いていた頃が、まるで大昔のようだ。あの頃はただ毎日を昨日の影を踏むようにくりかえして平穏に過ごし、笑い、物語りをしてよろこばれ、この世界のことを学び、いつか帰るのだと希望を胸に抱いて、なんと安らかでささやかな幸せを味わっていたことか。
アーラは唇に残るかすかな温みに苦笑した。今の自分が幸せでないとは言うまいが、なぜ自分がいろいろなものを放り出して幸せではない結末にこれから走っていかなければならないのか、はなはだ腹立たしかった。
――でもそれは、私がそうすると決めたんだもの。
見て見ぬふりをすればいいものを。
アーラは身の置き所に困っているような少女に微笑んでみせ、上品ぶるのも面倒で、そのまま菓子をつまんで口に入れた。
おいしかった。けれどすぐに、変だと気がついた。
世界が回った。否、めまいだ。体が揺れ、膝を床でしたたかに打ちながらも、何とか片手で壁をつかみ、上体を支えた。
しかしそれが限界だった。
――毒だ。
〝あちら〟の二時間ドラマでありがちな青酸カリのように喉をかきむしりたくなる兆候や、血を吐く気配はなかった。
だがめまいがひどく、視界がぐるぐると回転を続け、己の首が支えられなくなって、アーラはついに意識を手放した
意識が途切れるまぎわに、少女のすさまじい悲鳴だけが高々と聞こえた。