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61、決意

 帰途を走る馬車の一定のリズムを刻む揺れに心を鎮め、アーラは深呼吸した。隣にはゼファードの存在があり、女官よりも高い体温がたしかに感じられる。視察は儀礼ではなく実務であり、視察用の実際的で簡素な馬車の中は狭く、今は二人きりだった。

「……あのね、ゼファ」

 ようやくアーラは口を開いた。ゼファードが問いかけるかのように、眉毛をわずかに上げる。

「馬鹿みたいだと思えば大いに笑ってくれて結構よ。けれど、私は気がふれたわけでもいつものように物語りをするわけでもないわ。だから笑ってもかまわないけれど私が真剣だということを知った上で、聞いて頂戴」

「どうしたというんだ? そんなにももったいぶって」

「私は、警告を受けたの。うなされる夢の中で」

 アーラはほとばしりそうになる言葉を懸命に押しとどめ、噛み締めるように、努めて冷静でいるようおのれを保って悪夢について告げた。ゼファードが、アーラの名前の由来である〝かの人〟と同じように叔父に(かの皇子の場合は義理の伯父だが)殺されるという警告を。もちろん、あの吊られている気狂いじみた乙女については、何も話さなかったが。

 ゼファードは、嗤いはしなかった。微笑いもしなかった。彼女の様子がよほど切羽詰っていたのか、それとも素直にアーラの前置きを受け入れてくれたからなのかはわからない。だが、きちんと聞いてくれたうえでも、身の危険はこれまでにも幾度となく感じてきたことだから改めて気をつけるほどのことでもないと判断したようだった。彼ははっきりそう述べたわけではないが、アーラはそう感じた。

 疲れているんだろうと再三言いかねない気遣わしげなゼファードのまなざしのほうが、アーラはこの疲れよりも苦しかった。

 アーラは不安だった。巫女でも予言者でもない自分だが、あのようなはっきりした悪夢を連続性を持って見るからにはなにか理由があると感じずにはいられなかった。虫の知らせといってもいい。このままにしておいていいとは、どうしても思えなかった。

――ゼファードが身をもって脅威と感じられないなら、私が何とかしないと。

 たいして何かができるとも思えないが。

 話し終えて疲労感ばかりが残ったが、アーラは決意した。悪夢の中でもう一度あの〝ジルフィスの妹〟に会って助言を得ようと。

 悪夢を見るために眠ろうと努力するのはたいそう馬鹿げているが、今回ばかりは仕方がない。アーラは馬車の小気味よいリズムとソファに身をゆだね、そっとまぶたを下ろした。

 なかなか寝付けなかったが、悪夢を見るには不安定な浅い眠りこそがうってつけだ。アーラはまたしても絞首台が建ち並ぶ荒れ野におり、褐色の髪を波打たせ首の折れた乙女の前に立っていた。

「殺されるわ」

 首を捻じ曲げて顔を上げた乙女が言い、アーラはうなずいた。

「だから、私が何とかするの」

「剣も扱えないのに?」

 乙女はおもしろがっているふうだった。

「あなたに刺客は倒せなくてよ。寝ずの番をしていたって、王子もろとも殺されてしまうわ」

「わかってるわよ、そんなこと」

 アーラは言った。

「だから、刺客を送られる前にもとを断とうと思って」

「黒幕を殺すというの? 私にもあなたにも、そんな技術も力もないわ。私たちはただの、非力な乙女ですもの」

「私のしたいことをすればいいといったのはあなたよ。非力な乙女だからこそできることがあるんじゃない?」

 アーラは皮肉をこめて、

「さいわい、ヴァーディスは私に興味を持ったようだから。誘い出して、抱きついて一緒に崖下に落ちるぐらいならできるわよ」

 ジルフィスの妹は、長いまつげがびっしりと並んだ目をさらに大きく見張った。

「死ぬつもりなのね?」

「私、死ぬのは怖くないの」

 アーラは淡々と言った。

「私はグランヴィールの人間ではないわ。あなたが私なら、あなただって知っているでしょう? 私はこちらで死んだら、〝あちら〟に戻れるんじゃないかとさえ思ってる。それに、ナイフで刺したり毒を盛ったりするのは嫌だけど、崖から水へ飛び込むくらいなら、末弟だって運がよければ命だけは助かるんじゃないかって見込みがあるから、それほどの罪悪感を感じなくてすむわ」

 乙女は考え込む表情になり、やがて小さくうなずいた。

「あなたの推理はある意味一部正しくってよ」

「正しい?」

「ええ。あなたは私で、私はあなた。その意味を、きちんと理解しているかしら?」

 アーラはうんざりした。

「きちんと理解したいのにはっきりしたことを教えてくれないのはあなたよ」

「教える前に目覚めてしまうじゃないの。兎角、私たちは、どちらか一方しか生きることができない定めだったの」

 その告白に、アーラは眉をひそめた。

「どういうこと?」

「なんと言えばわかりやすいかしら……中身? 魂といえばいい? 私たち、ごらんのように見目が違うでしょう? だから体はもともとそれぞれに用意されていたのよ。それぞれに両親がいて、母の胎内でこうしてまったく違う肉体をあたえられた。けれど、肉体の中身――魂は、ひとつきりだったの。生まれ落ちる世界が隔てられているにもかかわらず、胎児の私たちはひとつきりの物を共有していた」

 そんなことが……ありうるのだろうか? アーラはそのさまを想像しようとした。別々の胎内に宿った胎児のあいだに横たわり、共有される魂とやらを。

「先に世に生まれ出たあなたの肉体に引きずられて、お母様の胎内の私から精が抜け出て、からっぽになったの。それで、中身のない私は生きられなかった」

――引きずられて? 

 魂といわれればぼうっと輝く光の球かと思うのだが、流動性のある固体のようなものなのかもしれない。寒天のような? 

 寒天状の魂が、ずるりと引きずられるさまを思い浮かべる。二つの器に盛られていたひとつながりの寒天は、一つの器を持ち去ったことによって、残された器をからっぽにした……

 罪悪感を感じることではないと、アーラは自分に言い聞かせた。不可抗力なのだから。

 ただ、先に褐色の髪の乙女のほうが生まれ出ていたなら、生きられなかったのはアーラのほうだったというだけのことだ。

「だからあなたは〝あちら〟で死にかけて、〝こちら〟へ来たのよ。今度は逆に作用して、魂が肉体を引きずってきたのだけど。生きる可能性があるもう一つの場所――グランヴィールへ」

 同様の作用を見込むなら、こちらで死にかければもう一度〝あちら〟に渡る可能性は充分にあると、彼女は請合った。アーラは帰る方法が、少なくとも帰れるかもしれない方法がようやく見つかったというのに、喜べなかった。

 褐色の髪の乙女が何かを言いかけた。

 だが、それを聞き取ることはできなかった。

 アーラは揺さぶられて目を覚ました。ごく近くにゼファードの双眸があり、アーラの心臓はつまづきかけ、馬車の振動は止まっていた。

「城に着いたぞ。……降りられるか?」

 アーラはうなずいて、自分の足で馬車から降りた。もっとも、差し出されたゼファードの手をありがたく支えに使わせてもらったが。

 彼は旅を終えた一行に迅速に指示を出し、務めがある者はそれぞれに命令を遂行すべく散っていった。

 ゼファードは王のもとへ報告へ出向く前に、アーラを客間まで送っていくといって聞かなかった。はやく一人きりになりたかったので、グラントリーの屋敷に戻るよりも以前使っていた客間で休ませてもらうことにアーラも賛成だった。

 客間に着き、女官が入れてくれたさわやかな風味をつけたお茶を飲むと、ずいぶんと気分が落ちついた。一緒にお茶を飲んでいたゼファードもカップをあけたところで、立ち上がった。

「今日こそはゆっくりと休むといい。警告を頭に留めて、俺も身の回りには気をつける。アーラもきちんと用心しろ」

「わかってる」

 アーラも立ち上がって、彼を見送ろうとした。真鍮の燭台を噛ませたドアにゼファードの手がかかる。

 するとアーラの脳裏を、悪夢の中で考えた作戦がちくちくと刺した。末弟ヴァーディスとともに崖下に身を投げるという、はたから見たら心中でしかない馬鹿げた作戦が。それを実行したなら、成功失敗問わず、おそらくもうゼファードに会えることはないだろう。運がよければ〝あちら〟へ帰るだろうし、駄目なら死んで海の藻屑になるのだから。人魚姫のように。

――人魚姫、ね。

 こんなときに一番好きな童話を思い出すのは奇妙だった。幼いアーラがあこがれたのはシンデレラでもいばら姫でも白雪姫でもなくて、人魚姫だった。美しいあの尾にあこがれたのだ。

 それは悲しい物語で、主人公と王子は結ばれないというのに。

「ゼファ」

 決意するよりも先に、呼び止めていた。

「どうした?」

 燭台を引き抜いて今にも廊下へ出ようとしていたゼファードが、振り返る。

 アーラの中で見栄と虚勢と、これきりだからという悲しみとこれくらいなら罰は当たらないだろうという自分への言い訳がせめぎあい、かわいげもない懇願でもない無表情な疑問形となってこぼれ出た。

「キス、くれる?」

 ゼファードの切れ長のはずの目が丸くなり、一瞬、間があった。噛む物が何もなくなったドアが静かに閉まる。

 そしてそれらは唐突に、怒涛のように起こった。

 疑問形への回答を待っていたアーラの後頭部がごつんと音を立て、背中が壁に押し付けられた。「ごつん」が繰り返されるよりも先に大きな手のひらが差し入れられ、アーラが後頭部をぶつけた文句をいうべきかそこを覆う手のひらについて問うべきか迷うよりも早く、唇がふさがれた。これを熱烈と表現してよいものか経験のとぼしいアーラにはわかりかねたが、普段の彼からは想像しがたい、どこかすがりつくような、必死とも思えるものであるのはたしかだった。首の後ろが燃えるように熱くなり、なのに同時にひどく冷たいような気もする。おせじにも、物語で頻繁にえがかれるうっとりするようなものではない。とにかくこのままでは息ができなくて死んでしまうということだけは理解できた。

「……キスをしてほしいとは思ったけど、窒息させてほしいとは思ってないわ」

 やっとのことで、アーラは言った。世間は、初心者には酸素吸入器を準備するよう注意をうながすべきだ。無論、ここにはそんなものはないわけだが。

 ゼファードはばつが悪そうな表情だったが、反論はせずにかがんで、座り込まずにいられなかったアーラに視線を合わせた。両手のひらでアーラの頬を包む。

「苦しかったのか」

「苦しかったわよ。こういうものなの?」

 まったく馬鹿なことを訊いていると思ったが、訊いたことは取り消せない。ゼファードはなんとも言えない面持ちをし、次に、不思議と微笑んだ。

「苦しくないように努力する」

 アーラは逃げようとしたが、もちろん両頬を包まれているので逃げ出せるわけもなかった。だが今回は、窒息の危険を感じずにすんだ。何度か呼吸を許されて、そのたびにやわらかな感触が降ってくる。ただ、どうしていいかわからなくて、身の置き場に非常に困った。こういう状況こそ居たたまれないというのだろう。しかし少しばかり、うっとりという表現を認めてもよい気分にはなった。

――やっぱり、ゼファが好きだ。

 どうしてかという理由や、なぜジルフィスではないのかという謎はもはやどうでもよかった。

――だからゼファのために、私はヴァーディスを消そう。

 たとえ自分もろともであっても。

 ……たしかに何とやらは、盲目なのかもしれない。

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