58、高嶺の
深海のように静謐な青ではなく、今ゼファードの双眸は不安と恐れと罪悪感と期待でさざめき立ち、火花の青のように見える。アーラは息をのむことすら、まぶたを動かして目を伏せることすらできずに、ただひたすらその瞳を見返していた。
アーラの脳裏には不安と恐れと罪悪感とおのれへの罵りと、許しがたい自身の我侭とが渦を巻いていた。今朝方街道で悪夢のような奇妙な幻を見てからというもの、さまざまなことがおかしくなってしまった気がする。
――どうしてゼファが?
ジルフィスのときも疑問だったが、このような問題に理由を問うことは無意味以外の何でもないことを思い出す。
――落ち着け、冷静に対処するの。
だがどう対処すべきなのかがわからないのだ。ジルフィスのときは少なくとも、やりようがわかったというのに。
気づかないふりをして自分をごまかすには、もう手遅れだった。「アーラがいい」という台詞を、「アーラなら面倒が少なくて都合がいい」と解釈するには、いささかどころかかなり分が悪かった。ゼファードの目に浮かぶ恐れがその逃げの解釈を否定しているし、何よりアーラ自身の本心が、意識の底でそのようには考えたくないと叫んでいるのだ。
アーラの沈黙に痺れを切らしたのか、このまま化石のように二人して固まり続けることに恐怖したのか、どちらなのかはわからないがゼファードがアーラの手をとった。ほとんど手入れをしないためにかさついている小さな指先に、ゼファードの唇が押し当てられる。震えが、伝わってきた。
やっとのことで、アーラは言った。
「訊いてもいい?」
あいている手でゼファードのもう一方の手をとり、彼がおのれに義務として課しているらしい剣技の鍛錬と実際的で膨大な決済処理のために硬くなった指先に、彼を真似て唇で触れた。するとゼファードの震えは一瞬でとまり、とまるだけに留まらず瞠目してこわばった。
「これって、どういう意味があるの?」
ただの挨拶ではないんでしょう?
ゼファードは言うべきか言うまいかかなりのあいだ逡巡していたらしかったが、ついには白状した。
「慕っていると……応えてもらえなくてもただこちらは慕っていると、高嶺の花に片恋を告げるんだ」
たとえば、夫がいる貴婦人だとか、自分に対して身分が高すぎるご令嬢とかに。
前に誰かからこうされたことがあるのかと彼の視線は問うていたが、その問いかけにアーラは気づかないふりをした。どうしてか、泣きたかった。
「私は、高嶺の花じゃないわ」
「アーラは高嶺にいる。だれも手折れない。自分から、降りてきてくれないかぎり」
返す言葉が、見つからなかった。
――どうしよう。
さまざまな思いが洪水のようにアーラの中であふれかえっている。自身の単純な気持ちはその濁流にもまれてもなお明確だったが、「どうすべきか」という理性の網ではその気持ちをすくいあげることができなかった。
「私は」
――頭の整理がつかないうちに話すのは、あまり得策ではないのに。
さらに喉は熱い塊でふさがれているようで、囁き声は自分でも聞きとりにくいほど弱々しかった。
「私は、この国の人間じゃないわ。この世界のものですらない」
「だとしたら、本当にグラントリーの家にジルフィスの妹として生まれていたのなら、俺と血族の従姉妹だったなら、受け入れたと?」
複雑なまなざしで見返されながら、アーラは絞首台に吊るされていたジルフィスやティアーナに良く似た女性を思い出していた。生まれたのに、生きられなかったグラントリーの娘。ジルフィスの、血を分けた本物の妹。
彼女なら、ゼファードにふさわしいに違いない。美しくて可愛らしくて優美で血筋も申し分なくて。
だが、この世の人ではなかった。アーラとは別の意味で。
ゼファードが口調をやわらげて言った。
「嫌なら嫌と言えばいい。ただ、俺はアーラがいいんだ」
強制も何もないただの意思表示なのに懇願の響きが聞き取れたのは、ひょっとしたら自分の思い込みのせいではないかと、アーラはくらくらした。
手首の内側にも口付けられて、アーラの動脈が大きく波打った。「嫌」とは言えない自分が、大いに嫌だった。
なんとも心苦しい宙吊りの状態を切り上げてくれたのは、ゼファードだった。
「……悪かった。おまえの体調が良くないと聞いていたのに、こんなことで困らせて」
彼の目の中にはっきりと自己嫌悪が見てとれて、アーラはいたたまれなくなった。彼が悪いわけではないのだ。何もはっきりさせられない自分こそが悪いのだと、アーラには良くわかっていた。
「よく寝ろ。明日出発するか、もう一泊させてもらうかは朝の体調を見てから考えればいい」
ゼファードはいつの間にか床に落ちていたセリスティンからの手紙を拾い上げて、たたんで懐に戻した。ほかに何も重要な忘れ物がないのを確かめるように付近を見回すと、立ち上がった。
「遅くに邪魔したな。……本当に、悪かった」
「ゼファ」
言うべき言葉があったわけではない。ただ、何か謝るなり彼が悪いのではないと言うなりしたほうがいいのではと漠然と思っただけで……否、そのようなものなどすべて後付けの理由で、アーラは反射的に彼を呼び止めたのだった。声は、普段の音量に戻っていた。立ち去る一歩を踏み出そうとしていたゼファードは振り返った。
「どうした? 具合が」
「違う。そういうことじゃなくて」
通常の半分の働きもしない頭がもどかしかった。整然と考えることはほとんどできなくなっているのに、いつになく大量の情報や記憶や切れ切れの事柄が潮流のように血管を駆け巡っているように感じられるのが恨めしかった。
次に口にする言葉が何かを変えるかもしれなかったが、アーラはそれを避けたかった。だから、これだけを言った。
「明日、一緒に馬車に乗ってもらえるとありがたいのだけど」
ゼファードはなんとも言いがたい面持ちをして、それでもうなずいてくれた。そしてアーラが長椅子から立ち上がるのを助けると、あとは口元を引き結んで、一度こちらを見ただけで部屋を出て行った。
「おやすみ」
アーラは喉の熱さを飲み込んでつぶやくと、ドア下の燭台を片付けた。