56、王
「どうした? うかない顔をして」
わずかな休憩時間に昼食をとっていた彼に声をかけたのは、顔を上げるまでもなくユンナ・ゾルデだった。
「殿下とお嬢さんがあんた抜きでご旅行ってのが、そんなに気に食わないか?」
ジルフィスはいらいらと無視を決め込んだ。
――気に食わなくて、当たり前だろうが。
アーラが近くにいないという事実が、いらいらをつのらせる一番の理由だ。だが彼に残るよう命じた王は何を考えているのかわからないし、普段でさえ不機嫌に見えるクオードはさらに不機嫌な顔をしているしで、居心地悪いことこの上ない。
ユンナはこちらの機嫌がたいそう悪く、無視しているのをわかった上で、楽しんでいるらしかった。
「心配は無用だ。殿下は殿下なんだから、ジルみたいにお嬢さんに断りなく手を出すような真似なんざしないさ」
思わず声のほうを振り向いてから、しまったと思った。ユンナの顔は予想よりも近く――ごく近くにあり、彼女の短い黒髪が頬をくすぐった。しかも、彼女らしく人の悪そうな満面の笑みをたたえていた。
「……おまえ、俺を怒らせて楽しいか?」
「そりゃ楽しいよ。見りゃわかるだろ? 私は、ジルが怒ってても泣いてても楽しい」
「俺がアーラをどう思ってるか知ってるくせに、俺の邪魔しやがるってのはどういった了見だ?」
アーラの髪にも頬にも温かくやわらかな唇にもいつだって触れたいと望んでいるのに、一度崩れかけた信用を取り戻すために相当の自制心を持ってこらえているのだ。それでもグラントリー邸で寝起きしていれば彼女が一つ屋根の下にいると、自分が一番近くにいると安心できたのだが。今回はゼファードこそがアーラと同じ屋敷で宿を取るというのは、仕方がないとわかってはいてもおもしろくなくて当然だった。
それなのに、ユンナはまったく悪びれずに澄んだ目で見返してくる。
「そりゃ邪魔したくもなるさ。あんただけじゃない、私だって、付き合うようになってからお嬢さんに首っ丈なんだからな。ジルみたいな馬鹿にお嬢さんをまかせてなんかやらないよ」
ジルフィスはできうる限りの恨みをこめてユンナを睨んだ。ユンナになついたアーラが近頃は何かとユンナを頼りにしているらしいのも腹立たしさの一因だ。もちろん、ユンナはジルフィスの恨みなどどこ吹く風で、ジルフィスもそのようなことなど承知の上なのだが。
不意にユンナは笑みを引っ込めて、生真面目な顔で言った。
「ジルだってわかってるだろ。あのお嬢さんほど身持ちのいいお嬢さんはいない。ジルみたいなのとは頭のつくりが違うのさ。まさか、信じてないってわけじゃあるまい?」
「俺がアーラを信じないだなんて、いつ言った?」
「信じるって、私は殿下のことを言ったんだぞ。お嬢さんじゃなくて」
二人のあいだに短い沈黙が下りた。
ジルフィスは黙ったまま立ち上がって剣帯の具合をたしかめると、そのまま王の元へ戻ろうとした。
「ジル」
今度は意識して、振り返ってしまわないように顎を引き締める。
「まだなにかあるのか?」
ジルフィスが振り返らずとも、ユンナが歩み寄って彼の正面に立った。
「コルディアが何か探り当てたんだろう、セリスのところから殿下へ早馬が出た。末弟派に動きが合ったらしい」
そして片手をあげて、何事もなかったかのように尚書局へと帰っていった。
ジルフィスが戻ると、グランヴィール王は彼を待ち構えていたかのように迎えた。
王の執務室にはなぜか、王弟にしてジルフィスの父サリアンがいる。いつもならば、自身の部屋で職務に励んでいるはずなのだが。
「クオード。外に出て、誰にも中の話を聞かれないように見張っていてくれ」
王が命じるとクオードは隙のない辞儀をして退室した。扉が閉まる。その扉の向こうでは、クオードが仁王立ちをしているのだろう。
「……さて。ジルフィス、私がおまえを残したことを実に不思議に思っていることだろうな」
「陛下の気まぐれなのでしょう? いつものように」
ジルフィスの皮肉に怒るようなグランヴィール王ではなかった。
「サリアン、威勢のいい息子だな」
「親にとってはあまり嬉しくない方向の威勢がいいんですがね、うちの息子は」
サリアンはジルフィスをちらと見て、肩をすくめた。
「兄上がそんな世間話をするために私とジルフィスをそろえたわけではないでしょう。いったい何がおっしゃりたいんです?」
「おまえたちをここへ呼んだのはもちろん、優秀な弟や威勢のよい甥を相手に世間話をするためではない。私も持って回ったやりかたはきらいだから、早々にすませてしまおう」
だが、主の簡潔な物言いは意味不明だった。
「私は倒れようと思う。以上だ」
「……は?」
「何のご冗談です?」
甥にぽかんとされ、弟に呆れ顔で見返されても、グランヴィール王は表情を変えなかった。
「冗談ではない。言ったとおりの意味だ。まず、私は常々この王制というものに――しかもほとんど権限のないわが国の中途半端な王制に――疑問を感じていた。たまたま長男に生まれついたというそれだけの理由でこれまで我慢してきてやったが、ゼファードもそろそろ一人前の年齢だ。じきに候補者がしぼられ、妃も決まる。私がいなくなったところで、だれも困るまい? それどころか私たち王家一門が残らずいなくなったところで、貴族議会さえあればどうにかなるだろう。私の存在意義はない――倒れて、ぽっくり死んだことにしてくれ。からの棺を墓に入れてくれさえすれば、後は自分で始末をつけるさ」
永遠にも感じられるほど長い沈黙のあと、サリアンが低く唸った。
「王としての、王の責任はいかがなさるおつもりです? 兄上はそれを放り出されるのですか」
「そうだ。さっきから放り出すと言っている。……ゼファードが王権を重荷だというのなら、王って肩書きを賞品か何かだと勘違いしているヴァーディスにやってくれ。あいつなら飢えた犬が餌に飛びつくみたいに、尻尾を振って受け取るだろう」
どこまでも無責任な兄王に、サリアンは絶句しているようだった。ジルフィスですらこの伯父をとんでもなく無責任だと思わずにいられないのだから、まじめな気質の父サリアンの腹は相当煮立っていることだろう。
「兄上、なぜ今そんな馬鹿げ――」
「馬鹿げているか? 私にはこんな不自由な身分こそが馬鹿げているとしか思えん。……私だけじゃない。タリシャも、陸の王なんぞに嫁がされる自分の運命が馬鹿げてると思っただろうよ」
亡妃の名前をしばらくぶりに口にした王は、壁を透かして遠くを見るような目になった。
「タリシャが死んだのは、ゼファードを生んだせいでも医者の腕のせいでも産後の感染症のせいでもない。あいつが、生きたがらなかったからだ」
故郷の海も見えない石の城の中で生きたくなかったからだと、王はつぶやいた。
「サリアン、ジルフィス。あとはお前たちに任せる。ゼファードでもヴァーディスでも、好きなほうを玉座に座らせろ。もう私の知ったことではない。ゼファードは私がいなくてもかまわない年齢になったし、私は疲れた。……さあ、さがってもかまわんぞ」
サリアンは留まってなおも兄王の説得を続けようとしていたが、ジルフィスは早々に退散した。
ただでさえ問題ばかりで手一杯だというのに、さらなる無理難題を提供しようとする王を三枚おろしにしてやりたい気分だった。
ゼファードがいない日を選んでわざわざサリアン・ジルフィス父子に話したのは、いったいどんな思惑があったのか。ジルフィスを通じてゼファードの耳に入るのはわかりきっているはずなのに、だ。あまりにも身勝手な理由だが、もしかすると直に息子の前では今日のような弱音を吐きたくはなかったからかもしれないとジルフィスは考えた。
――俺がアーラといっしょに行けなかったのは、馬鹿伯父のこんな我侭を聞くためだったなんて。
それなのに空は青く、明るく高い。ジルフィスは歯軋りしながらも、この新たなる大問題について話し合うべく、尚書局へと向かった。