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55、自覚

 グラントリー家の令嬢の一大事ということで、一行は馬をとめてアーラを休ませるための天幕を設けたらしかった。そこはアーラが「転げ出た」箇所のすぐそばで、馬たちは退屈そうに鼻を鳴らしたり、文字通り道草を食ったりしている。

 悪夢の衝撃が潮のように引いて落ち着きを取り戻すと、アーラはおのれの醜態を詫びてすぐに出発するように頼んだ。ゼファードも随行の者たちも皆もうしばらく休んでいくようにとうるさかったが、アーラは自分を卑下して見せつつも頑として出発の意向を譲らなかった。実をいうと、この場所では〝あちら〟と〝こちら〟がせめぎ合っているような気がして、少しでも早く離れたかったのだ。

――あんなにも早く帰りたいと思っていたのに。

 馬車に乗り込みながら、アーラは自分の心の内を見つめた。

――どうして〝あちら〟に近い場所にいることが、こんなに怖いんだろう? 

 いったい、自分は帰りたいのか。

――帰りたくないのか。

 その可能性に思い当たって、アーラは絶句した。

 〝あちら〟には家族もいれば、気のおけない友人たちもたくさんいる。こぢんまりした自分の部屋があり、書棚にびっしり並んだ文庫本をはじめたくさんの蔵書があり、日本語こそが国語であり、快適な生活環境がある。だが平和であると同時に退屈な日常も、そこにはある。

 そしてなにより、〝あちら〟にはゼファードもジルフィスもユンナもセリスティンもいない……属していないのだ。〝こちら〟にアーラの実の家族が属していないように。

――私は、〝あちら〟側の人間のはずよね? 

 なぜ疑問符がついてしまうのだろう。自分が、どちら側でいたいのかがわからない。

 ぜったいに帰ると心に決めていたのに、簡単に方法は見つからなくてもいつか見つけ出して帰ると決めていたはずなのに、どうして悩まなくてはいけないのだろう? なぜ、こんなにも苦しむ必要がある? 

――ゼファのそばできちんきちんと仕事をこなしてきたのだって、それは後腐れなく帰るためだったじゃないの。

 悪夢の光景がよみがえる。

 絞首刑になった人々。吊るされた、アーラの大切な人たち。〝こちら〟側の。

 ……予知夢なんて馬鹿げたものではありませんように。

 転げ落ちたゼファードの首が、目覚めた後にちゃんと体とつながっていたしなやかな首筋が、アーラの手のひらに感触としてよみがえった。あのまま悪夢が続いていれば自分は、死した首であれゼファードのものなら放り捨てるどころか抱きかかえて泣き叫ぶに違いないと思い至ったとき、アーラは呆然とした。

 もちろん死者を悼み敬う心はあるが、一部の人々が有する偏狭な愛好趣味は彼女にはない。つまり悪夢の中で胸を突いたあの感情は、気がふれたのでなければ、彼に対する……そう。そういうことなのだろう。たぶん。

 冷静に考えれば、「物件」としてはジルフィスのほうが優良だ。愛想が良く華があり、狐色の髪と蜜色の目は希少でたいそう魅力的だし、王位継承権を放棄したサリアンの子なのだからしがらみが少ない。しかも、あんなにもアーラを好いてくれている。応えられないと告げたのにもかかわらず。

 一方でゼファードは王の一粒種であり目下末弟派との冷戦に忙しい。面立ちは端整だがジルフィスほど甘やかではなく、気性も無愛想ではないが柔軟性にかけるきらいがある(とはいえアーラも、人のことを言えたものではないかもしれないが)。なにしろ、出会ってから初めのうちの印象があまりよくなかった。そのうえ重要なことだが、ゼファードはアーラのことを都合のよい従姉妹であり便利な友人くらいにしか思っていないだろうと考えて、彼女はため息をついた。嫌われてはいないとわかるのだけれども。

 このような七面倒な物思いにはまりこむなど十数年ぶりだ。ジルフィスにあれほどすっぱりと啖呵を切れたのに、〝あちら〟に帰ることを考えると同時にゼファードの深い藍色の目が脳裏にちらつく。

――これはつまり、おそらく、というかきっとそういうことなのよね? 

 ああ、嫌だ。自分が。とてつもなくジルフィスに申し訳ない気持ちになる。

 大きな息をもらして顔をうずめたアーラに女官が「ご気分が悪うございますか」と慌てて聞いてきたのだが、アーラは力ない笑みを返して「大丈夫」とつぶやくことしかできなかった。


 国境近くとはいっても、末弟ヴァーディスの管理する一帯よりもゼファードの領地は南側にあり、王都からさほど遠くない。途中一泊の予定で、この日一行は辺境貴族の屋敷でもてなしを受けることになっていた。

 おのれの情けなさにひどく恥じ入っていたアーラはせっかくのもてなしのご馳走も大して胃におさめることができずに、部屋へと引き上げた。

 まだ時間は早いが、さっさと風呂を浴びて寝てしまおうか。一応帳面や木筆は持ってきているものの、普段のように勉強する気も起こらない。けれども眠ればあの悪夢にうなされそうで、そう考えるだけでかなり気が滅入った。かといって徹夜をしては旅に差し支えるだろう。

 これだけ疲れているのだから夢など見ないはずで眠るべきだと自分に言い聞かせていると、ドアがノックされた。風呂に入る前でよかったと思いつつ、細く開けて廊下をうかがう。

「……壁に耳あり、よ。よそのお宅で秘密の会議はすべきでないと思うわ」

「別にそういった話題を持ち込みたいわけじゃない」

 熱い飲み物を作ってくれる女官を期待したのだが、ゼファードだった。アーラはしぶしぶ彼を入れたものの、ドアにしっかりと燭台をかませて隙間を確保した。

「今日あんな失態をしでかしたんだもの。もうあなたたちに迷惑をかけるわけにいかないんだから、早く休もうと思ってたのよ」

「具合は、ずいぶん悪いのか?」

 不器用ながら気遣わしさのにじんだ声をかけられて、アーラはなんと答えるべきか言葉につまった。

「……ずいぶんというのがどれほどかの度合いにもよるけれど。大丈夫、命に別状はないわ」

 アーラはさらりと返した。あつかいにくい感情の対象である相手を目の前にして照れるような年齢ではないのだ。「年齢」から連想して改めてゼファードは自分の弟よりも年下なのだという事実に思い当たり、彼女は喉の奥で自嘲した。

――帰らないと。〝あちら〟側へ。

 両親や弟妹が待つ、本来あるべき場所へ。……正直、あの妹が待ってくれているとは思えないが。

――ゼファのお妃がちゃんと決まったら、帰ろう。

 感情にナイフを突き立てているような痛みが走る。帰るすべも見つかっていないのにそう考えている自分はやはり疲れているのだと、アーラは認めた。とにかく目の前の難敵を問題なく撃退して、眠らなくては。悪夢の来訪の有無にかかわらず。

「本当に、大丈夫なのか? 何なら薬師を手配するし、明日の予定も」

「大丈夫。心配してくれてありがとう。ねえゼファ、まだ早いとはいえ夕食がすんでから人の部屋を訪ねてくるだけの理由があるんでしょう? あなたがジルフィスみたいに用もないのに遊びに来るわけがないわ」

 さっさとすませてしまおう。

「本題はなんなの?」

 ゼファードは一瞬ためらいを見せたもののすぐにそれを引っ込めて、その深海のような群青の双眸でアーラを見つめた。

「アーラに教えてほしいことがある」

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