54、悪夢
――こんなにも表計算ソフトが恋しくなる日が来るとは思わなかったわ。
凝り固まった肩を揉んでほぐしながら、アーラはため息をついた。
アーラはゼファードから渡された帳簿の確認作業という、なんとも「家令らしい」仕事にいそしんでいる。ここには表計算ソフトどころか電卓すらないのだから、昔から数学とは懇意とはいえないアーラは、すべて筆算で地道に計算し確かめていくより他なかった。
書き損じの紙の裏を計算用紙にし、ひたすら筆算を繰り返す。もちろんグランヴィールの数字ではなくアラビア数字におきかえて、だ。自分の計算がおかしいのではと思われるほど――得意の国語や歴史と反比例するように、数学ですさまじい点を取った前科は数知れずなのだ――帳簿には怪しい箇所が大いに見つかった。
暗算程度では見逃してしまいそうな小さな減額があちこちにあるが、総額ではかなりの金額になるだろう。それらが横領されているのはほぼ間違いなく、どこの世界でもこの手のことでは似たようなものだとアーラは思った。
「一冊の帳簿でこれほどなら、国境近くにあるっていうゼファの地所にはどれだけの不正帳簿があるのかしらね?」
苦労の成果をまとめて報告書を作り、それを提出する際にアーラは地所の経理を洗いなおすようゼファードに進言した。もともと収支が合わず金がどこかに流れていると予想していた彼でも、報告書に記載された金額は驚くべきものであったらしい。
ゼファードは報告書を見終えるなり、悩むよりも先に国境付近の領地への短い視察を取り決め、留守役たちに手際よく指示をして、翌々日にはアーラを伴い王城を出発していた。
彼のすばやさに、アーラはこっそり舌を巻いた。年末にかけてこれからどんどん忙しくなるのだから、行くなら一日でも早く出発するべきで、悩むだけ時間の無駄なのだそうだ。ゼファードはできることならジルフィスかクオードのどちらか一方も連れて行こうとしたが、王が許可しなかった。父王を説得する手間をかけるよりも彼はさっさとことを済ませるほうを選んだ。
王城に残ることを余儀なくされたジルフィスは、アーラが随行することにたいそう反対した。けれども王子が地所の代官を尋問しに行くというのに、その家令が行かないのもおかしな話だ。そうアーラが説得し、ジルフィスは渋い顔をしつつも、彼女を何とか送り出してくれた。
王子が田舎の地所をただ視察に行くとしかおおやけにはされていないので、見送りはわずか。少数精鋭の一行のいでたちは王子の連れにしてはいささか地味で、ゼファードと騎馬中隊と二台の荷馬車とアーラが乗る馬車のみだった。アーラはできることなら馬に乗っていきたかったが、散歩程度ならば一人で乗れても、遠方まで行くあいだ御していられる体力の自信はなく、おとなしく馬車に押し込まれることを受け入れた。
――王都の城門を出たのって、ものすごく久しぶりな気がする。
ゼファードは愛馬にまたがり馬上の人となっているので、馬車の中にいるのはアーラと彼女付きの女官だけだ。蹄と車輪の小気味よい音をひびかせて一行は街道を進んでゆく。
アーラがぼんやり窓の外を眺めていると、忘れようにも忘れられない風景に目が留まった。
――私が、転げ出た場所だ。
〝あちら〟の世界の底が抜けてから、〝こちら〟に転がり出てきた場所。今ここに王子殿下の従姉妹として、家令として、婚約者候補として存在するのもすべて、そこに転げ出てきたからなのだ。
その繁みを見ていると、不意に視界が揺れた。
街道と繁みが掻き消えて乾いた大地が映る。砂埃の臭い。金属と、何か、不吉なにおい。
誰かが私を捕らえに来る――たくさんの兵士に、囲まれる。抜き身の刃がちらつく。見たことのない鎧。もちろん、グランヴィールのものではない。簡素な麻の衣服に革の胸当て、耳の前で結わえた角髪。
それは、アーラが実際に見たことはなくとも、何度も想像したことのある風景だった。
すらりとしなやかで、美しい面立ちの青年が引っ立てられてゆく。角髪からほつれた長い黒髪が揺れる。彼は怒りと絶望と自嘲をない交ぜにしたような表情で、言った。
「天と赤兄が知っている。私は知らない」
――裏切られたのだ。
そして乾いた大地に、処刑台がずらりと並んだ。
吊るされている。人間がそこに吊るされていて、生きていないことは明らかだった。アーラはそれが自分自身だとすぐにわかった。しかし首がねじれたそれはかつて美しかった角髪の青年の顔に変わり、すぐに、褐色の髪を胸にたらした若い女性に変わった。その女性は絞首されて面変わりしてもなお、どこかしらティアーナに似て見えた。ジルフィスにも似ている。血が通った生前は可愛らしかったに違いない。
――生まれても生きられなかった、ジルフィスの本当の妹?
アーラが辺りを見回すと、別の絞首台にはジルフィスも吊るされていた。ほかにも知っている人たちが、王城でともに働いている人たちがいる。変わり果てた姿で。アーラは悲鳴の出し方すらわからなくて、倒れるように座り込んだ。
するとアーラから青年へ、それからティアーナに似た女性へと顔の変わった体が、吊るし食い込む縄に耐え切れなかったのか、どさりと落ちた。続いて、体から離れた首もころころと転がる。
目の前まで転がってきたその首は黒髪で、アーラは自分の頭だろうと思った。力をなくした腕を無理に動かして、それを拾い上げる。体を失ったその頭のうつろな瞳が藍色だと知れた瞬間、アーラの感情も声帯も決壊して悲鳴がほとばしった。
「ゼファああああっ!」
めちゃくちゃに手を振り回しながら飛び起きると、そこには荒野も絞首台もなかった。
アーラは小さな天幕にのべられた寝具で横になっていたようだった。馬のにおいはするが、死のにおいはない。
――ここはどこ? 私は……
そのとき天幕の出入り口が開いて、若者が入ってきた。呆然としていて身構えることすらできなかったアーラは、その若者の目が藍色であり、それどころかゼファード以外の何者にも見えないことに気がついてさらに呆然とした。
「おまえがいきなり奇声を上げるものだから、女官は肝をつぶして馬車から転げて、もう少しで馬の下敷きになるところだったんだぞ。いったい何があった? 馬車の中に油虫でも出たか?」
寝具の上にかがみこんでこちらをうかがっている彼の頬に、アーラは両手を伸ばした。腐りかけているどころか若くみずみずしく、目は涼しく澄んでいる。深海の青。死んだ魚のようなうつろな青ではなく。
「ゼファ?」
恐る恐る問うと、アーラの指先のすぐ近くで、彼の口の端がからかうように持ち上がった。
「俺が俺でなければ誰だというんだ?」
――夢でも見たの? 起きたまま?
そうでなければ、気がふれたのか。
唇に微笑を乗せたまま、しかし心配そうにこちらを見下ろすゼファードの無事こそがまだ夢のようで信じられず、アーラは彼の首筋に手のひらを当てた。ゼファードは驚いたらしくびくりと身を震わせたが、アーラの好きにさせてくれた。
彼のシャツの襟が許す限りアーラはゼファードの首に触れてじっくりたしかめたが、ありがたいことにその首はきちんと体と繋がっており、縄の痕もそのほかのどんな恐ろしい痕跡も見つからなかった。そのありがたさに喉がつまり、目の奥が熱くなる。
「……よかった」
心からそうつぶやいて、アーラはゼファードの胸に額をつけた。ゼファードの手がためらいがちに、しかし優しく彼女の髪を梳いた。
「何があった?」
アーラは目を閉じ、しばらく思い出さずにいた自分の本当の名を思い出した。
「私の名前の夢を見たのよ」