49、ゼファード
国境付近に不穏な動きがあるということは、ゼファードも前々から報告を受けて知っていた。王族よりの貴族議員たちはそれを末弟派の何らかの動きによるものに違いないと信じ、しかし末弟派はどんな噂を囁かれようとまったく動じていなかった。
幸いというべきか、リルグリッドの件についても何の動きも示さない。
牢番たちは、年にそうそうあるわけではないものの決してないわけではない獄中の自害や病死の囚人に対するのとまったく同じ手際のよさで、リルグリッドを共同墓地管理人に引き渡した。何事もなかったかのように牢は掃除され、そのうちに酔っ払いか、喧嘩沙汰を起こした若者か、許可なし営業の夜鷹かが放り込まれることだろう。
何がどうであれ、明日には王子妃候補者たちをそろえての晩餐会が行われる。目が回りそうだ。そのような不毛な茶番など無駄遣い極まりないのだからやめてしまえと思う一方、貴族に対する建前や王族としての権威を誇示し牽制することを考えざるをえない。亀の歩みの会議も言ってしまえば有職故実にがんじがらめになった一種の儀式であり、そういった無駄な舞台がなければ維持できない現実に気が滅入る。
貴族議会の機嫌を損ねる危険性を考慮すれば表立って動くことかなわず、おとなしく慣例に従うふりをしながら、密偵に末弟派の周辺を探らせるしかない。
――末弟派が国外に利益を流している物的証拠や人身売買の現場を押さえられたら、おおっぴらに片付けられるんだが。
公職という表と別に裏の顔を持つ密偵たちが書き送ってくる報告書と今朝の会議内容に頭を悩ませつつも、ゼファードは晩餐会についての打ち合わせのために執務室へと戻ってきた。時間に几帳面なアーラなら、きっと早目に来てすでに控えの間で待っていることだろう。
――アーラと話せば、気分が晴れるかもしれない。
従僕に会議出席用の重いマントを押しつけて片付けに行かせ、控えの間をのぞく。予想通り彼女はそこへ来ていたが、いつものようにゼファードに気づき顎を上げて手を振ることはなかった。
「……アーラ?」
信じがたいことに――合理的で効率的できちんとした物事を好む彼女には甚だめずらしいとしか思えないことに――長椅子に座ったアーラは、上体を肘置きに預けるようにたおして、眠っていた。
ゼファードはその意外性に驚き、同時に微笑ましいとしか言いようのない気持ちがこみ上げてくるのを感じ、足音を立てぬように長椅子に歩み寄った。呼吸に合わせて穏やかに肩が上下する。アーラの長い髪は肩と肘置きにたっぷりと流れ、幾筋かは頬にこぼれていた。
顔にかかったその髪がくすぐったそうだったので指先でよけると、彼女の薄いまぶたがごくかすかに動き、身じろぎした。彼女が起きてしまわぬように思わず息をつめる。すると再びアーラはまどろみに囚われたようで、一定のやわらかな呼吸が戻った。
打ち広げられた髪からはほのかに、紫草の穏やかながらさわやかな香りがたちのぼる。アーラに似合いの匂いだ。
少しならば大丈夫だろうという大いなる希望的観測を自認しながら、ゼファードはその髪に触れた。猫の毛のように細くやわらかく、そして猫よりも随分とつややかだ。まろやかな丸みの頭部からそっと指をすべらせて、その梳き心地を味わう。多分の罪悪感と名づけがたい甘やかな気持ちがない交ぜになり、彼はしばらく彼女の髪の手触りを楽しんだ。
――ずっと傍らにいてほしいと告げたなら、彼女はどんな顔をするだろう?
その想像は良い見込みよりも恐れのほうが強く、いつも彼女の具体的な表情を思い浮かべるよりも先に打ち消した。このまっすぐで有能でユーモアがあり悪意がなく信用の置ける存在が、自分でも戸惑うほどに好ましいのに、その気持ちを伝えてよいものなのか伝えるとしたらどうすべきなのか、まるで見当がつかない。
――いまは、まだ。
見当がつく日が来るのかどうかさえ疑わしいが。
膝の上に投げ出されていた彼女の左手に、そっと触れる。香油やクリームを塗ると紙や本がさわれなくなるからといって、令嬢らしからぬ、少しかさついている手。清潔で小さな爪。剣の練習で硬化している自分の皮膚とは違い、ふっくりとやわらかそうな指先。
ゼファードは彼女を起こさぬように静かに身を乗り出して、アーラの指先に口づけた。首の後ろと背筋がちりちりする。さらに身をかがめて、脈打つ手首の内側にそうっと唇を押し付ける。痛いほどに己の胸郭に鼓動を感じて、名残惜しく思いながらも彼女の左手を元に戻した。
――ジルフィスなら、きっと気を引くうまいやりかたを百通りも知ってるんだろう。
だが生憎、ゼファードはジルフィスではない。彼女の不興を買わずに彼女に思いを伝えるすべなど思いつくまで待っていたら百年経ってしまいそうだ。
ゼファードは己のふがいなさにため息をついて、立ち上がった。
――わざわざ起すこともない……打ち合わせはアーラが起きてからでいい。先に、決裁書類を片付けよう。
上着をぬいで、肩が冷えぬよう彼女に着せ掛けようとしたところで小さく息を吸う音が聞こえた。息をのんでそちらを見ると、まぶたがきつく閉じられ、次の瞬間にふっと緩む。身じろぎとともに睫毛がうごき、生まれた隙間から褐色の瞳がのぞきこちらを伺っていた。
気まずさと言い知れない安堵と湧き上がった気持ちを飲み込んで、ゼファードは笑って見せた。
「待ちくたびれたみたいだな。よく寝ていた。……遅くなって、悪かった」
アーラがゆるゆるとかぶりを振る。あのやわらかい髪が肩でかすかな音を立てた。
「ごめんなさい。控えの間とはいえゼファの執務室のすぐ隣で居眠りだなんて、どうかしてるわ。……ありがとう、上着、大丈夫だから」
彼女が長椅子から立ち上がるのに腕を貸しながら、ゼファードは考えた。
――妃候補を三人まで絞るのは、新年の祝いの席だ。
それまでに突破すべき課題と障害と埋めるべき外堀の広さを思いうめきを上げそうになるのをこらえて、ゼファードはただ腕にアーラの手の温かさを感じた。




