48、母娘
王弟サリアン・グラントリーの妻でありジルフィスの母であるティアーナと二人きりで話すのは、今日が初めてだった。
ティアーナ・グラントリーは齢四十半ばをとうに過ぎ五十に近づいているはずだが、未だ少女のような愛らしさを感じさせる女性で、なるほどサリアンが熱烈に大切にするのももっともだとアーラは納得した。
緩やかに波打つ豊かな栗色の髪、明るい褐色の瞳。頬はふっくらとしてつやがあり、ほとんど年齢を感じさせない。目じりには笑いじわが刻まれているが、それはむしろ好ましく感じられた。
ジルフィスの背の高さや顔の骨格は父親似だが、その甘やかな面立ちは母親譲りに違いないとアーラは思った。やわらかなまなざしも優雅な弧をえがく唇も、よく似ている。
ジルフィスが予言したとおり、ティアーナは晩餐会のガウン選びを心底楽しんでいるようだった。仕立て屋が馬車に山積みにしてきた布地とレースとリボンのサンプルの波間をすいすいとかきわけてゆく。仕立て屋もお針子も、「母娘水入らずでゆっくり吟味したいから」とのティアーナの言葉に従って一人残らず席をはずしていた。
「わたくし、あなたが娘になってくだすって本当に心から嬉しいのよ」
明るく甘い微笑みをアーラに振りまきながら、あれこれドレスの布地を手にとってティアーナは言った。
「ありがとうございます。ご迷惑ばかりかけてしまって心苦しいばかりですが、ティアーナ様にそう言っていただけて、私は幸せ者です」
アーラがこたえると、実に楽しそうにティアーナはころころと笑った。
「そんな鹿爪らしいこと言わないで頂戴。わたくし、あなたのことを実の娘のように思っていてよ、アーラ。本当よ」
アーラは珊瑚のようにあざやかなピンクの生地を胸元に当てられてたじろぎながら、
「けれど私は、王子殿下の命と御はからいによってここにいられるだけの者です。貴い血筋などではございませんし、顔立ちも姿もまったく優れたものでは」
「まあまあ! だれがそんなことを言ったの?」
ティアーナは柳眉を跳ね上げて、
「アーラ、あなたは充分かわいらしくってよ。折れそうに細い首や腰、人形のように小さな口ばかりがもてはやされたのは昔のこと。今でもそういったことに腐心している方々はいらっしゃるようだけれど、わたくしはあなたの素直なお顔が好きよ」
素直なお顔とはどんなだと思いつつも、そのような無礼な疑問はおくびにも出さずにアーラはつつましく礼を述べた。
「ありがとうございます、ティアーナ様」
「堅苦しいのはなしよ、アーラ。だからお母様と呼んで頂戴な。わたくしは自分の〝娘〟とガウン選びを楽しみたいのよ」
「ですが、ティアーナ様も聞いておいででしょう? お嫌ではないのですか。私は、サリアン様の庶子ということに――」
「そんなのふりだけだとわかっていますもの。なんでもなくってよ。サリアンはわたくしを愛してくださるし、わたくしもサリアンを愛しているわ。それだけで充分ではなくて? それにあなたが仮にサリアンの庶子だとしても、わたくしは自分の娘として接したはずよ。だってアーラは、わたくしの赤ちゃんが大きくなって戻ってきてくれたようなんだもの」
しみじみとティアーナは言った。
「わたくしとサリアンにはね、本当に娘がいるはずだったの。昔のことよ」
アーラにとってそれは初耳だった。藍色や群青、濃い紫の布をより分けていた手を止め、耳を傾ける。
「そう、ジルフィスにも一つ違いの妹がいるはずだったわ。生まれるまでまだふた月はあるというとき、わたくしは侍女たちと出かけようとしていたの。王都の外の、すがすがしい空気を吸いたくなったのよ。けれど都の城壁を出て街道を少し行ったところで破水してしまって……お医者様は間に合わなかった。生まれてきたのに、あまりに小さすぎて、生きられなかったの。わたくしのかわいい女の子」
ティアーナのつぶらな瞳にうっすらと涙の膜がゆらめく。睫毛をぬらしたその雫をそっと払いながら、彼女はアーラに笑いかけた。
「……ごめんなさいね。あなたは二十歳なんだもの、あの子が生きて育っていれば二十六のはずで、そんな子といっしょにされたくないわよね」
「いいえそんな!」
ティアーナは、アーラが異界から転がり出てきたという事情も、実際の年齢も、ジルフィスの妹になった成り行きの詳細も知らない。知らせた上で演技をしてもらうよりも知らせないほうがいいと、ゼファードが判断したのだ。
アーラは驚いたのと慌てたのとで混乱し始めた頭の手綱を取るのに必死だった。
「すごく、すごく嬉しいです、そんなふうに思っていただけて。ティアーナ様……いいえ、お母様のよい娘になれるように、がんばります」
「がんばらなくたってよろしいのよ! 時々いっしょにお茶をして、時々いっしょにお買い物をして、毎日ちょっぴりお話をしてくれれば、わたくしはそれで大満足なの」
――育っていれば、生きていれば二十六歳……私と同じだわ。
偶然なのか必然なのか判じかねるこの一致に、アーラはくらくらした。この情報にこそ〝こちら〟と〝あちら〟をつなぐ鍵があるような気がしたが、早産のため亡くなった赤子と、予定日と大差なく安産で生まれたアーラ自身に、生まれ年以上の共通項を見つけるのは困難なように思われた。
「さあ、わたくしの娘のために、明日のために素敵なガウンをつくらなくてはね! このレースで、袖をたっぷり飾るのはいかが?」
ティアーナは「二十歳なのだもの! 若い子にはピンクが一番似合うわ」と大いに主張したが、アーラは持ちうるかぎりの技術を総動員しピンクをあきらめるようやんわり説得することに何とか成功した。できれば濃色にしたかったアーラだがティアーナの嘆願により藤色で折れることに決め、レースとフリルの分量を減らすために何度も骨を折らねばならなかった。
ガウンの生地と形とを決めて仕立て屋に託したころには、アーラはげっそり疲れきっていた。
午後からゼファードと打ち合わせの予定があり、屋敷で昼食をとってから一人馬車に揺られて王城にやってきたものの、ともすればまぶたが閉じそうになる。
従僕にきいてみると、ゼファードは少し席をはずしているらしかった。控えの間で待つことにするが、長椅子に座ってあくびを噛み殺していると目の奥がぼんやりした。
――布地選びのときに、目を使いすぎたのね。
眠い。ゼファードを待たねばならないのに。
アーラは眠気と戦い、勝利したという実感を得ることができないまま、知らぬ間に意識を手放していた。
数分後、ゼファードは長椅子でまどろんでいるアーラを見つけることになる。