47、ユンナの授業
娼婦リルグリッドの死は、いわゆる経験豊富な検死官により、若い女が起こしがちなヒステリーから引き起こされた獄中での自害と結論された。しかしセリスティンは喉の傷の角度と血痕に疑問を述べたくてうずうずしており、それでも立場をわきまえている彼は検死官にそれらを指摘することはなかったという。
〝軽微な罪〟で一夜牢に勾留された女一人が〝自害〟したところで、宮廷の予定が覆るはずもなかった。
王城の筆頭広報官により王子ゼファード・グランヴィールのお妃候補八名がつつがなく発表され、その話題は急使が鞭を当てた馬よりもはやく走り王都中に広がった。
二日後には選ばれた令嬢を招いての晩餐会が催される。無論、アーラも出席せねばならない。そのためにあらかじめ渡された候補の一覧を頭に叩き込み、財力から親戚関係までをも覚えたのだ。候補の一人・グラントリー令嬢として参加するほかに、晩餐会ではゼファード王子の家令として候補者たちを観察し、さらに候補を絞り込むための情報を収集しなければならない。きらびやかな洪水のような宮廷を泳ぐのはまだ不慣れだが、社会の荒波ならばしょっぱい思いをしつつもかいくぐってきたのだ。舞台はコンクリートの群れではなく石積みの王城だが、目を開き耳を澄ましていれば、それなりの働きができるだろう。
――令嬢のふりをして夜会に出るのは懲り懲りって思ったはずなのに、家令の仕事だと思えばそんなにつらくないのは、不思議ね。
降ってわいた侵入者死亡の調査にセリスティンとゼファードが忙しく、授業が取りやめになったのでアーラは早目に屋敷へ帰った。先ほど聞いた事件について、自分のための覚え書き――家令日誌に細かく記入する。もちろん、日本語で。
夕方。
約束通りにグラントリー邸まで訪ねてきてくれたユンナを出迎えようとして、アーラは目の前の女性がしばし誰だかわからずに呆然とした。
大きな帽子を小粋な角度でかぶり、隙なく白粉と頬紅をはたき、既婚者らしい褐色の肩掛けとたっぷりしたミモザ色のドレスを着た背の高い貴婦人。この女性が口を開くまで、アーラは彼女がユンナ・ゾルデだと気づかなかった。
「どうしてそんな格好をしているの!」
思わず素っ頓狂な声を上げたアーラに、ユンナは貴婦人然とした身なりにまったく不似合いな大笑いをした。
「だから言ったろう? 私は男としても女としても一流で通せるだけのしつけをされたんだって。お上品な既婚婦人を気取るのだってわけないのさ」
「だからどうしてお上品な既婚婦人を気取らなくちゃならないの?」
ユンナは茶目っ気たっぷりにアーラを見つめた。
「あんたは王子殿下のお妃候補なんだよ、お嬢さん。公表されただろ? そんなお嬢さんのところへ夕暮れ時に男のなりをした尚書官が訪ねていったら、他の候補者たちはどう思うだろうね?」
アーラの中で一瞬にして反論が幾通りも出来上がったが、その反論に対する世俗的な反駁をも次の瞬間には容易に想像することができて、納得せざるを得なかった。
「……なるほどね」
「小金のありそうな既婚婦人なら、王弟閣下のお宅を訪ねても大して問題じゃないってわけさ」
アーラの部屋で帽子をとったユンナはやはりユンナらしいユンナで、綿密にほどこされた化粧と短く刈り込まれた髪のコントラストが何とも言いがたかった。
「さて、私がお嬢さんにしてさしあげる〝授業〟はグランヴィールの政の基盤、王権と貴族議会並立制のしくみあたりからとりかかろうか」
ユンナの説明は簡潔でわかりやすく且つユーモアがあって、アーラはまったく退屈しないどころか、かなり楽しんでさえいた。おぼろげにしか把握していなかったグランヴィールのありかたが、ようやく具体的な輪郭を得て腑に落ちる。
グランヴィールは二百年ほど前まで封建制であったが、その後中央集権型の絶対王政に移行し、やがて王族と貴族と抑圧された民衆の三つ巴の争いとなった。短期間で絶対王政と貴族連合が立ち代りで政権をにぎり、どちらも民衆の支持を得られないまま、百二十年ほど前にようやく現在の形態となる。
「現在まで続く王権・貴族議会並立制は、その名の通り王族と貴族議会がどっちがぬきんでるってこともなく国政を仕切ってくやり方でね。立法権は貴族議会にしかないから、まあ概ね、貴族議会で決められたことを王や王族が承認するって形になる。だから殿下を見てりゃわかるように、王族の仕事ってのはほとんど、議会から上がってきた書類に署名や印章を押すことなのさ。もちろん王族にも拒否権はあるし、会議ですり合わせもできるから、よくない案件は王族と貴族議員の高等会議に出した上で廃案にできる。この廃案にすべき案件や議会への要求案件なんかの書類の用意と管理が、お嬢さんの主な仕事の一つになるだろうね」
書類の様式や書き方などを今後、順を追って教えることをユンナは約束してくれた。
「これからもこうして来てくれるの? 変装して?」
「ああ、変装してな」
ユンナが楽しげに答える。そしてアーラが、日々尚書官のもとに提出される数々のとんでもない書類のエピソードについて聞いていると、ドアがノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのはアーラの予想通りジルフィスだった。ありがたいことに、アーラは今日夜着ではない。
ジルフィスはドレス姿のユンナをまるで羽をつけた蛇でも見たように観察し、ものすごく嫌そうな顔をした。
「兄妹水入らずで話がしたいんだすぐに出て行けこの珍獣」
ユンナは意味ありげに眉を上げて、
「ねえお嬢さん、お嬢さんはこの部屋で珍獣なんかを飼っているのかい?」
アーラもユンナを真似て眉を持ち上げた。
「まさか! 猫は飼ってみたいと思うけれど、密林や奥地から取ってきたような珍獣を飼いたいとは思わないわね」
「おまえのことだよユンナ・ゾルデ!」
ジルフィスが息巻く。ユンナはけたけたと笑いながらアーラに片目をつぶってみせると、
「それでは今晩はこれにてご無礼いたしますわ。アーラ様、ごきげんよう」
半オクターブ高い声音で言い、大きな帽子をかぶりなおすと完璧な貴婦人の物腰で部屋を出て行った。
「……あいつ、ぜったい胸に詰め物してるな」
「ジル、ものすごく失礼よ」
つぶやきをアーラに聞きつけられたのが意外だったらしく、ジルフィスはたいそう気まずそうに向き直った。
「せっかくユンナからいろいろ教えてもらっていたのに。兄妹水入らずで話すべきことっていったいなんなの?」
「ええと……そう、昨晩ゼファが襲われた件についてだ」
目が泳いでいる。アーラはすぐに、ユンナを追い返したいばっかりにジルフィスが適当なことを言ったに過ぎないのではといぶかった。ジルフィスとユンナはいったい仲がいいのか悪いのか、まるでよくわからない。
「お昼にゼファから聞いたわ。その人、牢で自害したんですってね。表向きには」
ジルフィスはアーラがすすめたソファにすわり、アーラ自身は書き物用の椅子の向きを変えて腰を下ろした。
「きっとゼファは、その人が死なずにすんだなら私に打ち明けはしなかったと思うの。だからジルもお昼のとき私に言わなかったんでしょう? でも実際は、ボーロック公の娘が死んでしまった。ボーロックが妙な出方をするといけないから、ゼファは警告の意味で私に教えてくれたのよ。私が帰ったあと、何かそれ以上の進展があったの?」
ジルフィスは首を傾げてまじまじとアーラを見返していた。
「なぜ見張りがボーロックの娘をゼファのところまで通したのか、聞いてないのか」
「訊いたけど、ゼファが何も言わなかったの。特別な理由でもあったの?」
「いや、べつに」
ジルフィスはたいそうわざとらしく話題を変えた。
「ゼファは、侵入者の件のほかに何も言わなかったのか?」
これを確認したくて彼はここにきたに違いない――ジルフィスの落ちつかなげな様子に、アーラはそう確信した。
「ほかにって、例えば?」
しかしいったいジルフィスが何をこうまで気にしているのか、見当もつかない。事件など、一日に一つでも充分すぎるというのに。
「……いや、ないならいい」
眉をひそめるアーラの頬をジルフィスは両手のひらで包み込み、そっと髪を撫でた。そのまま見つめられて、アーラはにらめっこでもしているような気分に陥る。目を閉じたら、そらしたら負けだ。
アーラが相当に鬼気迫る表情をしていたのか、ジルフィスは苦笑して、前髪に唇を落としただけではなれた。そしていやに明るく口調を変えて、言った。
「明日は大変だぞ」
「どうして? 明日も、じゃないの?」
「明日は今日の比じゃない。二日後の晩餐会にアーラが着るガウンを選ぶんだって、おふくろがはりきってるからな」
アーラは肩をすくめた。王城に呼ばれてからこのかた、大変ではない日などないような気がするのだった。




