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45、昔語り

 ユンナは低く耳に心地よい声で語り始めた。

「私の生い立ちは驚くべきものでも隠すべきものでもないが、ややめずらしいたぐいのものではあってね。私は、花街の娼館で生まれた」

 アーラは努めて平静を保った。アーラの平静の下を見透かしたかのようにユンナは可笑しそうに目を細めた。

「母が娼婦だったんだ。ジルフィスが昔よく遊びに行ったような至れり尽くせりのもてなしが期待できる高級娼館ではなくてね、だがまあ姐さんがたはそれなりにきれいに装っていられる、中流の店だった。

 姐さんがたの噂によれば、私の父さんは学者だかどこかの先生だかってことだった。娼婦が生んだ子どもの父親なんてものは九割九分、たしかなことはわからんがね。

 妊娠して早い時期に気づけば裏町の医者を呼んで下ろすことが多いが、母が気づいたときには腹の中で私はもうだいぶ育っていたそうだ。生んでから始末するほうが早いだろうってことで、男の子が生まれたらまびいて、女の子だったら育てて娼婦にして働かせようって寸法だったらしい。

 ちなみに母は、私を生んですぐに亡くなったんだ。産後の肥立ちが悪くてね。幸か不幸か、男のしるしがついていなかった私は、生まれた娼館でそのまま見習いとして育てられることになった。

 でも店の期待は大いに外れてさ、私はがりがりに痩せててちっともかわいげのない、かわいくもない子どもにしかならなかった。こんなのが娘盛りの年になっても、男どもは見向きもしないだろうってくらいの不器量な子どもさ」

 そのころの自分を思い出したのか、ユンナはクックッと喉の奥を鳴らしてハトのように笑った。

 アーラはユンナの横顔をまじまじと見上げた。たしかに美女といえる外貌ではない。しかしそこには熟練の職人が手がけた道具にある機能美のような、簡潔にして無駄のない顎のラインと涼しげな目元がある。不器量という言葉はとても不似合いに思えた。

「十二歳の年だった。厨房で夕飯の用意をしていた私はちょっとした不注意から髪に火をつけちまってね。ああもう、燃える燃える。驚いた姐さんたちが寄ってたかって消してくれたんだけど、少しでも女らしく見えるようにと伸ばしてた髪はほとんど燃えちまってね。炭になったところを切り落としたら、どこからどう見ても痩せぎすの男の子にしか見えなくなった。

 胸もなけりゃ尻もない、おまけに髪もほとんどない。馬番の男の子よりみすぼらしかったね。ただ背だけがひょろひょろと高くってさ、どうしたってスカートが似合わないんだ。姐さんたちのお古のスカートをはくと、通りを行く人みんなが私を指差して笑う。坊主が母ちゃんのスカートはいてっぞ、ってな具合にね。しかたなしに私は古着屋で一番安いズボンを買ってきてもらって、それを着ることになった。

 その格好で店の前を掃除していたときに、私の人生は変わったんだ」

 目つきが遠く、そしてやや優しくなった。

「夕方。そろそろ商いを始めようって頃合だった。私は集めたゴミを始末するために、箒を仕舞って戻ってきたところだった。

 ゾルデ卿とあだ名される御仁が――貴族ではないただの金持ちだから、卿ってのは正しい呼び方じゃなくてあだ名なんだ――私が生まれた店の前で足を止めた。そして、私をじっと見て何やらうなずくと、『この子にしよう。もう店は開けてるかね?』って言うのさ。私は娼婦としての作法もまだ習っていないまったくの子どもだったから、店に出られるはずもなかった。店側も、仕込んでないって断るべきだったのさ。だけど、私みたいなやせっぽちで見込みなさそうな娘に客ができたことに店は大喜びしてね、ほいほいとゾルデ卿を上の階に上げちまった。私は目を白黒させることしかできなかったな……いっくら花街育ちって言ったってさ、そんな見てくれじゃ客もつかないって高をくくってたから」

 アーラは息を呑んでユンナを見返した。ユンナは歩調も口調ものんびりしているが、これはのほほんと語れる種類の話ではないように思える。

「ゾルデ卿はもちろん、私の服を脱がせようとした。まあそうする場所だからな、娼館は。だが私はもう泣きじゃくって暴れてわめいていろんなことを叫んで、とにかく手がつけられなくってさ。ゾルデ卿は怒るというよりあきれて、あきれるというより困っちまったんだよ。そうこうしているうちに、卿は自分の思い違いに気がついた」

「……思い違い?」

「ああそうさ」

 あろうことか、ユンナはいたずらが成功したときのような笑みを浮かべた。

「ゾルデ卿は、私を男の子だと思い込んでいたんだよ!」

 こらえきれないというようにユンナはアハハと大きく口を開けて笑った。アーラも大きく口を開けた。しかしそれは笑ったからではなく、ぽかんとして。

「おういお嬢さん、そんなに口を開けてると羽虫が飛び込むぞ?」

 指摘されて、アーラはぱくんと閉じた。ユンナはニヤニヤした。

「ゾルデ卿はそちらの趣味のおかただったのさ。女の子にはまるで興味がわかないらしくてね。世の中にはいろんな人がいるからな。背ばかり高かった私を、十五、六の幼顔の少年と勘違いしたんだ。あの店には一人も男娼を置いてなかったってのに」

 アーラはうなずいた。ようやく思考力が戻ってきた。

――そう、世の中にはいろんな人がいるものよ。

 アーラ自身にはそちら方面の趣味はなかったが、ギリシャ神話のガニメデから江戸時代の念者から彼女の母校の女子校特有の文化にいたるまで、そういったたぐいのものには触れてきている分、理解はあるつもりだ。文学や文化を学ぶ者ならその種の話が決してめずらしいものではないことくらい知っている。

 アーラが驚いたのはそちらではなく、悲惨な過去の告白と思われたユンナの話が、思っても見なかったほうに転がったせいなのだ。

 アーラの口が閉じたのを見届けると、ユンナは続けた。

「かくして私の貞操は守られた。ふつうなら、これでゾルデ卿が『とんだ貧乏くじだった』と帰ってしまえば終わりだった。けど卿はなぜか私を気に入ったらしくてね、養子にしたいからと店に掛け合って私を買い取ったのさ。

 こうして私とゾルデ卿――おやじさまは出会ったんだ」

 ユンナはとても嫌そうに……しかし愛情のこもったようすで、顔をしかめて見せた。

「貿易で財を成したが独り者のおやじさまは花街でちょっと遊ぶくらいでは使い切れない金をたんまりため込んでてね、ひとり養子をとるくらいなんでもなかった。

 たまるいっぽうだった金におやじさまは新しい使い道を見出した。それが、私への投資さ。おやじさまはとにかく、一人前の男としても最高の女としても通用するものに私を仕立て上げたかったらしい。金持ちのぼんぼんやご令嬢が習うものは一通りやらされたね。私はどれも、まあ及第点というところまではこなして見せた。こう見えて負けず嫌いなんだよ、私は」

「私も負けず嫌いだから、わかるわ」

 ユンナはアーラにニヤリとした。

「おやじさまがお嬢さんを見たら、養子第二号にしたがったかもな」

「ユンナさんのおやじさまは、今もいっしょに住んでらっしゃるの?」

「いいや、死んだよ」

 本当になんでもないことのように、さらりとユンナは言った。

「おやじさまのおかげで花街生まれだってのに私は尚書官にまでなって、いまや王子殿下の従妹君とまでお近づきだ。癪だけど、感謝しなくちゃならんな」

 ユンナの長い指が、アーラの頬をすべる。そのままアーラの顎を軽く持ち上げて、ユンナはしげしげと彼女を観察した。

「ふうん……こういう子が、ジルの好みなのか」

 アーラは視線の置き場所に困った。ジルフィスはいったい、何をどこまでユンナに話しているのだろう? 

「頬が丸くてかわいいな。うん、睫毛も長い。あいつは絶世の美女系が好みかと思いきや、素朴な女の子に射抜かれたのか。……おや?」

 ユンナがアーラを解放し、目をすがめて遠くを見た。

 アーラも振り返って、ユンナの視線を追った。すると、木立の向こうから女官が駆けてくるところだった。

――なにかあったの?

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