幕間
ことの発端は自分自身の一言だったと、ジルフィスは思い出した。
それは、一週間ほど前のこと。
わざと収拾がつかないようにかき混ぜているのではないかと思われるほど、いつもながら喧喧諤諤――長引きに長引いた、貴族議会代表と王族による会議がようやく終わった。
ジルフィスは気取られないようにこっそりため息をついた。
巨大な長机の向こう端で、ジルフィスの父である王弟サリアンがグランヴィール王となにやら小声で話しこんでいる。王の末弟――つまりジルフィスの叔父でもある――ヴァーディスは、秘書官に議事録を持ってこさせ、中身を確認している。自分に不利なことが書かれていないかを確認しているのだろう。内容の曲げられた議事録など意味がないというのに、今のところ、誰も見て見ぬふりをしている。国王でさえそうなのだ。国王陛下にどんな腹積もりがあるのか若輩者には汲めるはずもないが、末弟派はほうっておけばますますのさばるにちがいないと、ジルフィスは確信していた。
「末弟派の古狸どもは、揚げ足取りの達人だな」
ジルフィスの隣で資料を見直していた、従弟のゼファードがぼやいた。
「しかも、不利な質問をされると『はい』か『いいえ』で答えるべきところを、修辞ばかりをやたらめったらつなげた意味不明の長文ではぐらかす。……口頭でやる会議なんぞ、無意味だな。紙面に質問を印字して、選択した答えの欄にしるしをつけさせるとか、そういった方式でないとまるでだめだ」
「そんな証拠文書が残る方式、末弟派が認めるわけがないだろ」
ジルフィスが小声で返すと、従弟はわずかに肩をすくめた。
「わかってて言っているんだ。だから父上も、馬鹿らしいと思いつつこの古典的な会議を続けていらっしゃるんだろう」
先々代の王の頃までは、諸外国との武力交渉が絶えなかった。しかし今は「表向き平和」と言えるほどまでになり、王侯貴族が佩いている剣は、ほとんど家門の紋章代わりだ。近衛隊をはじめ兵士が帯びている剣の刃は本物で、決闘や危急の際には使用されるものの、大軍同士がぶつかり合って互いに首を刎ね胸を貫いた時代は、とうに終わっている。だからこそ、貴族も王族もこんなふうにぐだぐだと議題をこねくり回していられるのだろう。
ジルフィスは首の後ろをもみながら立ち上がった。
「ゼファ、これからひさしぶりに花街へ遊びに行かないか? こんなふうに神経をげっそり削り取られた日にはさ、ぱあっと遊んで英気を養いたくなるってもんだろ?」
ジルフィスが予想していたとおり、ゼファードは乗り気ではなかった。
「俺は花街へ行くと、余計に疲れる」
「――そりゃ、ある意味当然そうだろう?」
「言っておくが、おまえが想像しているのとは違うぞ。気疲れするんだ」
ジルフィスは「娼館が肌に合わないって? 王子様はお上品なことで」と茶化そうかとも思ったが、やめにした。ゼファードが本当に疲れて見えたのと、何より、末弟派のボーロック公がこちらへやってくるのに気づいたからだ。
「これはこれは王子殿下、ご機嫌麗しく。筆頭騎士のジルフィス様も」
もちろん麗しくないことなど承知の上での挨拶だ。ジルフィスもゼファードもそれなりにおざなりな挨拶をボーロック公に返す。
ボーロック公は、最高級の布地を惜しげもなくたっぷり使った規格外のヴェストコートでなければ覆い切れない腹を突き出して、もみ手をした。
「このたびは、殿下にひとつお願いがありまして。お聞き願えましょうかな?」
「力になれるかどうかは別として、聞くだけなら聞こう」
そう答えたゼファードにボーロック公は大いに恐縮して見せたが、腹の中では馬鹿にしきっているに違いない。
「殿下の管理召されている天領に隣接しております我が領地の商人から、街道の整備について訴えが出ておりましてな。間の森に道を造ればずっと楽に大きな商いができるものを、現存の街道だけにしておくのはもったいないと申すのです」
ゼファードは天領二つと南西部の一部の管理を、グランヴィール王から任されている。ジルフィスも天領内の農場視察に何度か同行したことがあり、たいそう質のいい赤ぶどうがとれることに感心したものだ。
従弟は平板な口調で応じた。
「あの森は代々王族の管理下だ。整備するとなれば国庫ではなく王家の金庫からの持ち出しになる。表街道があるというのに莫大な金と貴重な森林資源を切ってまで新しい道を造る価値はないという結論を、俺の前の管理者だってしてきたんだ」
「臣民のために王家が身をお切りになり新たな道を造られれば、民は総じて感謝し殿下を支持申し上げるかと」
「その道を造ったとして、使うのは主にそちらの領地の民だ。商いが大きくなればそれだけ税も上がるはずだが、その税はそちらに納められる。そうなれば、森林の中の道だけに維持管理費が相当かさむのにこちらに実入りは少なく、道の造り損だ。それに問題は、金の面だけではない。あの森林を伐採すれば川のかさが増えたときに水が逃げて、町に危険が及ぶかもしれない。流域に大水の心配をするご婦人がいて、安心させるために技師に森林の貯水量と水害の被害規模を想定計算させたことがあるんだ。詳細が知りたければ文書館へ行ってくれ。記録が残っているはずだ」
「と、おっしゃいますと……?」
「貴殿の提案には応えられない。伐採する代わりに貴殿の領内の岩山を掘ってこちらに穴道を通すというのなら、少しばかりの支援を考えないでもないが?」
ボーロック公は大げさな身振りでお辞儀をした。
「いやはや、残念ではございますが、まったく殿下のおっしゃる通りでございます」
そして何ごともなかったように退室してゆく巨大な後姿に、ジルフィスは思わず眉をひそめた。
「あいつ……何がしたかったんだ?」
「さあ? 俺をおちょくって楽しみたかっただけだろう」
「おまえこそもうちょっと楽しみを覚えろよ。楽しみすぎてあんなに膨れるのはどうかと思うけど。……なあ? 花街、一緒にどうだ?」
ゼファードが考えるそぶりを見せたので行く気になったのかと思ったのもつかの間、
「ジル。声のいい歌い手か語り手を知らないか?」
ジルフィスはわけがわからなかった。
「娼館には歌い手や踊り手の一人や二人、いるもんだろ。それがどうした?」
「だから花街は行かないと言ってるだろう。おまえの頭の中はいったい何が詰まってるんだ、桃色の綿か? 俺はただ、さすらい人か吟遊詩人でも呼んで、めずらしいバラッドや物語りで気分転換をしたいと思っただけだ」
そんなことを言い出した従弟のためにジルフィスは、「安くてうまい飯を食わせてくれる下町の宿屋に、おもしろい娘がいる」という部下からの情報を教えたのだ。
それが後に激流となる、最初のひとしずくだったのだ。