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44、セリスティン

「セリス」

 ゼファードが声をかけると、城塞のように積み上げられた書物の奥から部屋の主の返事が聞こえた。

「勝手に入ってどうぞ。ただ、気をつけてよ。前みたいに雪崩れて埋まっても僕もコルディアも助けてやらないから」

 研究室というよりも、本をどのように配置したらいかに威嚇的に見えるかという観点において積まれた前衛芸術の展示室のようだ。しかもレンガや石材に見立てられたかのようなそれら書物の多くは、セリスティンが専門にしているはずの国史学とはまるで関係のないタイトルを背表紙につけている。「現代薬品総覧」、「軍事暗号実例集」、「植物より抽出される毒物」、「犯罪心理考察」などなど。

 美貌の友人はそんな本の要塞に守られて、アーラから課された「宿題」に取り組んでいた。

「しっかしめずらしいな、殿下から僕の研究室に出向いてくるだなんてさ。どうせ午後に授業で会うんだから、用があるならそのときに言えばいいじゃないか」

「第四市街を視察する公務があったから、帰りについでに寄ったんだ」

「ふうん。その公務とやらは、家令になったっていうアーラもいっしょ?」

「アーラには今日からユンナ・ゾルデを教育役につけた。尚書官から学ぶべきことは多いだろう。城で勉強中のはずだ」

「あの子も勉強家だねえ」

 くせのない銀の髪をかきあげてゆるゆると首を振る。

「ま、僕ほどじゃないだろうけど」

 アーラがもたらした言語を恐るべき速さで習得しているセリスティンは毎日の授業だけでは飽き足らず、アーラに会うたびに「宿題」をせがむのだ。今では簡単な手紙程度なら書けるようにさえなっていて、「宿題」の多くは、アーラが設けたテーマに沿ってセリスティンが書いた手紙を彼女が採点するという流れになっている。

 短文がいくらか読み取れるようにはなったゼファードでも、残念ながら、アーラと手紙をやり取りするほどの力はまだついていなかった。同じ時間だけ授業を受けているというのに、セリスティンはゼファードの数歩先どころか、背中が見えないほど前方をひた走っている。

――勉強家というより、勉強馬鹿だ。

 ゼファードの胸中など知る由もなく、セリスティンは幸せそうにため息をついた。

「まったく、次から次へと湧いてくるこの複雑怪奇な漢字という存在は神秘だな! ひらがなという便利な文字がありながらそれをわざわざ難解で筆順の多い漢字に置き換えるだなんて、アーラの国の人たちは素敵すぎるよ」

「……楽しそうだな」

 セリスティンはこれまでに何十人何百人もの女性を(ときには男性をも)卒倒させてきた殺人的に輝かしい微笑みをゼファードに向け、うっとりと手紙の表面をなでた。

「そりゃあ、楽しくないわけがない。これがあれば僕は一週間食べなくても生きていけるね!」

「言っておくがちゃんと食べろよ。前、一週間どころか十日近くほとんど食わず眠らずで倒れただろう? コルディア嬢がいなければおまえはもうすでに三回は死んでるぞ」

「僕が死んだらここの本全部の写本を用意して一緒に墓に入れてよ。あの世でも読めるようにしなくちゃ気が狂うくらい貴重な書物ばかりだからね」

「そういうものは自分で用意してから死んでくれ。……それに、俺はこんな世間話をするために今日来たわけじゃない。あまり長くかかると、外で待っている供の者たちが怪しむ」

 まあそうだろうねとつぶやいて、セリスティンは美しい目をぐるりとまわしてみせた。

「何のご用で? アーラがまたおもしろい文字でも思い出したとか?」

「おまえの〝趣味〟について、少々協力をあおぎたい事柄ができた」

 酔ったようにアーラの言語を賛美していたセリスティンだが、たちまち口元に別人のような酷薄な笑みを浮かべた。

「へえ? 殿下がそっちのほうで僕を頼るだなんてめずらしい。趣味って、〝あの〟趣味のことだね?」

「できれば使いたくはない。だが、使ったほうがいい場合もある」

「そりゃそうさ! 頼ってくれて嬉しいよ」

 薄い青灰色の瞳が狂喜している。ゼファードは胸の内で嘆息した。

――試せる機会がそうそうないんだから、嬉しいだろうな。

 セリスティンの〝趣味〟は、見世物小屋から逃げ出して今の身分を勝ち得たコルディアに影響されたものだ。二人が本に埋もれたこの研究室で世間から隠れてどんなことをしているか、ゼファードは長いあいだ見て見ぬふりをし、そしてときには彼らの力を頼んだ。

「で、何にどう使うんだい?」

「昨夜、俺の私室に侵入した輩がいる」

「へえ。末弟派の暗殺者? 拷問用のやつをご所望で?」

 クオードならば、王族へ無礼をはたらいた者はすべて処刑してしまえというだろう。しかし事はそう簡単ではない。王権びいきのクオードは貴族議会を毛嫌いしており、それゆえ貴族議員たちの陰湿な情報網や子飼いの力について軽んじている節がある。国法では、王権への侮辱や王族を害そうとした者に対しては裁判なしで処刑を下せるが、そうした場合に、王権乱用について民衆に大げさに喧伝する貴族議員たちを納得させるのは大変面倒なのだ。

――ボーロックの血を引いているらしいが、それは生まれてきた娘の罪ではない。

 くだんの侵入者がまとっていたむせるような甘い香りが思い出され、ゼファードは頭痛を覚えてこめかみをもんだ。

「拷問用じゃない。そいつはすぐに降参して情報提供の代わりに保護を求めてきた」

「え。でも、殿下の寝込みを襲おうとしたなら命乞いしたって、クオードだったら絞れるだけ絞って殺せっていうだろ?」

 セリスティンもある分野については過激な部分を持つ学友について、ゼファードと同じ想像をしたらしい。

「だが、気の毒な捨て駒だ。殺すのは忍びない。……理由はそれだけともいえないが」

 できることなら処刑は避けたい。だが、大きな危険をはらんだまま野に放すこともしたくない。ゼファードは言った。

「だからおまえに、侵入者の記憶を曖昧にする薬を借りに来たんだ」

 セリスティンは氷色の瞳を気狂いのように危うくきらめかせた。

「薬だなんて無粋な名前で呼んでほしくはないな。あれは何種類もの神経毒の絶妙な配合によって出来上がる芸術品ともいえる代物で肉体への負荷を最小限に抑えた上で一種の酩酊状態にすることでよくあ」

「細かいことはどうだっていい」

 いつまでも続きそうな講義をゼファードはぴしゃりと切って、

「とにかく、用意しておいてくれ。誰にも知られないようにな」

「……了解」

 セリスティンはひらひらと片手をあげた。

「後日改めて連絡してよ。コルディアと都合つけて、投与しに行くから」

 ゼファードはうなずいた。この件についてリルグリッドの記憶がセリスティンたちの功労によって茫漠としたものになれば、ボーロック側に寝返る心配はなくなるだろう。そんなことをしなくとも、万に一つもその可能性はないだろうが。

 けれども、セリスティンたちがその〝趣味〟をリルグリッドに生かす機会は訪れなかった。永遠に。

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