42、教育役
食堂でつめてもらった食料を外に持ち出して、アーラは日当たりのよい芝生で昼食をとっていた。すぐ傍らではジルフィスが、肉とチーズをはさんだパンにかぶりついている。
「ねえジル」
「うん?」
「今日、ゼファのお妃候補の八人を公表するのよね」
彼は咀嚼していたものを飲み下して、手についた粉をはたいた。遠くからかすかに鐘の音が聞こえる。もうじきに持ち場へ戻らなくてはならない時間なのだ。
「ああ。その中に、アーラも入っているね」
水筒の水を飲み、残りで口と手をすすぐ。パンの粉にたかろうとしていた小鳥たちが跳ね散る水に驚いてあわてて飛びのいた。アーラがタオルを差し出すとジルフィスはにっこりした。
「ありがとう」
「うん。私の名前は、最終候補まで残すってゼファが言ってたわ」
「まあ、虫除けだと思っておけばいいさ。王子のお妃候補に手を出すような馬鹿はそうそういないだろ。しばらくはアーラがジュビスの坊主みたいなやからに悩まされることはなくなるよ」
「血の繋がった兄さんに悩まされるかもしれなくっても?」
アーラがからかうように言うと、ジルフィスは笑って彼女のこめかみにキスをした。アーラはそれを微笑んで受け流すことができた。これくらいならグランヴィールにおいて、兄が妹へ対する親愛の情として行き過ぎたものではないだろう。たぶん。
ジルフィスから馬車の中での振る舞いを謝罪され、はっきりと思いを告げられたあの夜。アーラは彼の思いを受け入れられないと答えたというのに、ジルフィスは一向にへこたれる様子を見せなかった。少なくとも、アーラが表面から見る限り。
もとよりさまざまな経験が豊富らしい彼はすぐに、アーラが許すものと眉をひそめる行いとの境界を見定めたらしかった。実際、その後ジルフィスは何かと機会を見つけてはアーラに触れようとするが、それは頭をなでたり肩を優しくたたいたりというもので、アーラを安心させこそすれ、戸惑わせたり迷惑がらせたりはしなかった。
――ジルフィスにはきっと、すばらしい奥さんが見つかるわ。
彼には意外にも年上の奥さんが似合うのではないかと、アーラはこっそり決めつけていた。ジルフィスを受け止めるならおそらく相当の包容力がなくてはならない。しかし地位や家柄にこだわらない彼のことだから、社交界の外をも探せば、ふさわしい女性が見つかるだろう。
「さて。そろそろ陛下のところにもどらないとな」
ジルフィスが立ち上がり、剣帯の具合をたしかめた。彼は国王陛下に侍す騎士交替の合間を縫ってこうしてアーラに会いにくるが、休憩は短くわずかな時間だ。その貴重な休み時間にわざわざ自分を訪ねてくることもないのにとアーラが言っても、彼は聞き入れなかった。あわただしいといったらないが、休憩時間の使いようは彼の自由なのだからそれ以上は言わないでいる。
「じゃあ、またあとで。授業のときに」
「うん。いってらっしゃい」
アーラも立ち上がって、ジルフィスにひらひらと手を振った。ジルフィスは振り返ってなにか言いかけたようだったけれど、芝生の向こうから近づいてくる人影に気がついて眉を上げた。
「ユンナ?」
ジルフィスの表情が見る見る曇る。
尚書官の黒い制服を粋に着こなしたその人物はアーラの目の前までやってくると、大げさな身振りで礼をして見せた。
「お初お目にかかります、お嬢さん。しかしお嬢さんのお噂はかねがね、この頭の中がお花畑な御仁からいろいろと聞き及んでいますよ。私の名はユンナ・ゾルデ。尚書局に属するしがない事務屋です。どうぞお見知りおきを」
アーラは思わず夜会でするような淑女の礼をしかけたものの、どうしたものか迷ってジルフィスを見た。ジルフィスは肩をすくめ、何かを察したらしく、少し離れた場所に控えていた女官に下がるよう命じた。ゼファードがアーラにつけた忠実な女官はわずかに眉をひそめたが、律儀なお辞儀をして立ち去った。
「……ユンナ、どうしておまえがここにいる?」
ユンナ・ゾルデと名乗った尚書官は薄い唇をにやりとゆがめて、
「ごあいさつだな。今朝、殿下から至急のお手紙をいただいたのさ。もう燃やしたがね。私は直筆の書簡によって、王子殿下の家令の任をお引き受けになったアーラ嬢に事務的なあれこれを教えて差し上げるお役目をおおせつかったんだよ」
「尚書局の方はいいのか?」
「午後を非番にした。先日二日酔いで午前出てこられなかった奴の仕事を代わりにやって、貸しが作ってあってな」
このジルフィスと同じ年頃らしい尚書官にどう対応すべきかアーラがはかっていると、ジルフィスが子どもをなだめるかのように彼女の頭に手をのせた。
「大丈夫だアーラ。こいつは信用できる」
そして彼は声を落とし、囁いた。
「ユンナは、アーラの境遇も知っている。なんせこいつが、アーラを俺の妹に仕立てる戸籍書類を作ったんだからな」
アーラは驚いてまじまじと尚書官の顔を見た。切れ長の目は楽しげに細められ、左目にかけられた片眼鏡が陽光を反射する。隣で、ジルフィスが小さく鼻を鳴らした。
「おまけにこう見えて、こいつは女だ。そちらの方面を警戒する必要はない」
アーラはぽかんと開きたがる口を閉じているのに、かなりの努力が必要だった。線の細い男性だとばかり思っていたのだ。
「まあ、私はそういうのにかまわない性質なんでね。間違えられようが女子便所に行こうとするのを止められようがなんとも思わないんだ。だから気にしてくれるなよお嬢さん」
ユンナは気前よく言って、
「さて。そんなことよりジル、あんたは陛下の御前にもどるところだったんだろ?」
ジルフィスはとても嫌そうな顔をして、けれどももどらざるを得ないためにしぶしぶ体の向きを変えた。
「いいなユンナ、ぜったいアーラに変なこと吹き込むなよ!」
「あんたが心配するようなことは言わないさ。過去の武勇伝は、せがまれれば話すかもしれないがね」
ジルフィスは何かが気になるらしく、たいそう未練がましく去っていった。
「……お嬢さん。あいつは、あんたにとっていいお兄ちゃんかい?」
「はい、とっても」
間髪いれずに答えると、ユンナはさも可笑しげに笑った。
「そうか。ジルはすばらしい妹御を持ったもんだ」
「いいえ、私は世話と心配ばかりかけています。自分で自分が厄介です」
「一介の事務屋に向かってそう丁寧な口を利くものではないよ、お嬢さん。それに女同士なんだ、堅っ苦しいのはぬきだ。私なんざ身分にこだわってちゃあジルとだって目え合わせて話せやしないさ」
なんて懐が深い素敵な人なのだろうとアーラは感激した。もしもアーラが通っていた女子校にユンナのような先輩がいたなら、その見目の魅力とあいまって、ファンが殺到することだろう。
「わかったかい? お嬢さん」
「……はい。お気遣いありがとう。私、とっても人に恵まれてるわね」
「お嬢さんの人徳だよ。お嬢さんは最初、殿下に語り手として呼ばれたんだって?」
「語り手だなんて、そんなたいそうなものじゃないわ。でも、みんな楽しんでくれてるみたい。今でもお茶の時間に物語りをしたりするの」
「私もぜひ拝聴したいものだね。何でもかまわないから、一つお願いされてくれるかい?」
アーラはうなずいた。