40、クリームの添えられたケーキ
こうして見てみると、アーラとは似ても似つかない女だった。まっすぐな黒髪と肌の白さが同じだけだ。
大きな瞳は白っぽい灰色で、鼻筋が通りおよそ美人といえるが、口が少し大きすぎるきらいがある。アーラは幼くも見える丸顔だが、眼前の女の輪郭は美しい卵形をしていた。
「誰の手の者だ? 名乗れ」
刃を突きつけたまま、低く唸るように問う。女はシーツに黒髪を散らし、夜着の裾からむきだしの足をさらした姿勢で、あろうことかゼファードに笑いかけた。
「予定よりも随分早くにお気づきになられましたわね。こうなってしまったからには、逃げも隠れもいたしませんわ。その剣をお収めくださいまし」
女の声は絹糸のように細いくせに甘ったるく、ゼファードは眉をしかめた。
「娼婦か?」
「ええ。あたくし、リルグリッドと申しますの」
名乗った娼婦が愛嬌たっぷりに小首を傾げると、髪の一房が肩を滑って広くあいた胸元に落ちた。ゼファードは短剣をにぎる手に力をこめた。
「誰に遣わされた?」
「夜が明けるまでにはすべて残らず白状いたしますわ。けれどその前に、なさることがおありではなくって? お堅くいらっしゃるとは伺っておりますけれど、クリームが添えられたケーキでさえ、殿下はお召しあがりになりませんの?」
彼女は短剣を恐れるようすなく半身を起こし、しなやかな腕を伸ばしてゼファードの首に抱きつこうとした。ゼファードはそれを肩でいなすとつかんでいた左手を放し、リルグリッドを寝台から床へと転がした。
「生憎、娼婦を買うのは俺には向かない。楽しいとは思えなくてな」
床に転がされても、リルグリッドは笑みを絶やさなかった。
「お気の毒に! けれど、娼婦を汚れ物のように思ってらっしゃるのなら無理もないことですわね。それを心配なさるのでしたら、あたくしの体はきれいなものでしてよ。殿下のために、今夜のためにあたくしは育てられたのですもの」
――俺のために……育てられた?
ゼファードが眉をひそめると、女の灰色の目がきらきらと光った。
「お疑いになる? でしたら試してごらんになってはいかが? 殿下の閨のための体ですもの、下賎な男を知らぬことは請合いますわ」
リルグリッドの話を聞いていると気分が悪くなる。
これまで、何者かが女を彼のもとへ送り込もうとした未遂事件は何件か起きていた。しかしそれらはすべて見張りの兵士や従僕たちによって阻止されており、これまで不当にゼファードの私室を侵した女はいなかった。
それなのに、今回はシーツの上まであがりこまれてしまったのだ。
それはおそらく、ひとえにリルグリッドがアーラを装ってきたためだ。ゼファードの近習たちは、主人が従妹と何かと親しくしていることを知っている。床に落ちている外套はアーラが城に来る際に羽織ってくるそれとよく似せてあり、髪もよくよく見てみれば生来のものではないらしく、蒸気などを当てて伸ばしてまっすぐにしたようだ。耳の近くに、リルグリッドの素のままの巻き毛がみとめられた。
――末弟派だな。
「……何が望みだ?」
問い詰めるのを後回しにし、ゼファードはたずねた。すると
「殿下の寵を」
あっさりリルグリッドは答えた。
「殿下のお恵みをこの身に賜りましたら、すぐにでも姿を消しましょう」
ゼファードは痛む額と目の前の現実とリルグリッドの言葉が示す事柄にほとほと嫌になりながら、ため息をついた。
「子種をもとに俺を脅迫するか失脚させるかするつもりなんだろう。そういう下卑た発想はボーロックか?」
リルグリッドは「あらあら」と声を上げて、長い睫毛にふちどられた目を瞬いた。
「どうしておわかりになりましたの?」
――わからないほうがおかしいだろう。
娼婦でありながらほかの男の手に染まっていないのは、子ができたとき確実に王子の種だと主張するためだ。さらに、瞳の色がひどく淡い娘が選ばれたのは、ゼファードの濃い青の目を赤子に受け継がせる心積もりだったとも推測できる。リルグリッドは子を宿すのに最適な時期と体調に整えられてここまで送り込まれたに違いない。
――馬鹿にされたものだな。
心の内で嗤おうとして、ゼファードは嗤えなかった。
――もしもこれが娼婦ではなく、本物のアーラだったら?
身がこわばる。娼婦だと気づかずに、彼女をアーラと信じ込んだままだとしたら?
「そこまでお分かりになっていらっしゃるのなら、あたくしが口をつぐむのも馬鹿みたいですわね」
彼の物思いに気づかぬらしいリルグリッドの声に、ゼファードははっと現実に引き戻された。首の後ろが熱く火照っているのに、背中には冷たい汗が流れている気がする。
「夜明けまでまだ時間がありますけれど、全部お話いたしますわ。そうすれば、あたくしがこれから命の危険におびえなくともいいように、はからってくださる?」
「ああ……約束しよう」
何とか威厳を取り繕ってゼファードはうなずいた。リルグリッドはにっこりして、床に座りなおした。
「どこからお話すればよろしくって? ……ああ、あたくしが殿下のために育てられたというのは本当ですのよ。あたくしの母は娼婦でしたけれど、父の血は賎しからぬものですわ。そのあたくしの父が、世間ではボーロック公と呼ばれているお方なのです」
思わず声を上げそうになったのを、ゼファードはこらえた。
――ボーロックには庶子すらいると聞いたことはなかったが……娼婦に生ませて、隠していたのか。こうして利用するために。
「先日、殿下のお妃候補を決めるための夜会がありましたでしょう? そこで目星をつけられたお妃候補が明日公表されるのだとか……あら、もう深夜を回りましたから、今日のことになりますわね。その候補の中に、ボーロック公はあたくしを入れさせるおつもりのようでした。夜会に出て正面から挑んでも、きっと殿下はあたくしをお選びにならないでしょう? ですから殿下の寵をいただいてボーロック令嬢として候補に入れていただき、ゆくゆくはお妃にしていただくという作戦でしたの。それがかなわぬのなら生まれた子を証にして、醜聞を武器にすることもできますもの」
リルグリッドは実にぺらぺらとよくしゃべたった。陽気で、悲観的にならない性質なのだろう。
「ボーロック公はあたくしに失敗は許されぬとおっしゃいました。これがどういう意味か、ご想像なさって? きっとあたくし、始末されますわ。ですからこうして正直にお話しました見返りに、保護していただきたいんですの。大変なお金をよこせなどとは申しません。花街から出て、追っ手の手の届かぬところでひっそり暮らせれば充分すぎるほどですわ」
ゼファードはその申し出に応じることにした。
彼は侵入を許した見張りを罰し、別の兵士にリルグリッドを引き渡してひとまず牢に入れさせた。そしてその場に居合わせたもの皆に、決して今夜のことを口外せぬと誓わせた。
ようやく一人に戻って、寝台に腰を下ろす。そして、両手で頭を抱えた。
――もしも、アーラだったなら。
そう考えてしまったことで、ようやく気がついたのだ。おのれがどれほどまでに彼女を信頼し、心許しているかということに――……否。彼女をそのような対象として見ていたという、自分の気持ちに。