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39、ざわめく

 ゼファードの見込んだとおり、アーラには実に家令向きの素質があると知れた。勤勉でよく気がつき、責任感が強い。頭の回転が速く、よく相手の気持ちを汲む。

 砂に水がしみるように物事を覚えてくれるのは気持ちのよいものだ。

――部下が皆、アーラのようだったら良かったのに。

 無論一度では通じかねる事柄もいくつかあったけれど、彼女は教える側を焦らさず、また、嫌な気分にさせないこつを心得ているようだった。

 ゼファードとセリスティンに向けた授業も今までどおりにこなし、お茶の後に仕事の段取りを少しずつ覚え、さらに屋敷に帰ってからはグランヴィール語の読み書きを勉強しているらしい。まるで学舎の模範生だ。

 例の夜会からちょうど一週間にあたる明日、婚約者候補が正式に公表されることになっている。そのときには令嬢の顔と名が一致するようにとアーラに予習の念押しをするつもりだったのだが、聞いてみれば先日渡した婚約者候補のリストはとうに彼女の頭に入っており、しかもそれぞれの令嬢の家がどれほどの規模で宮廷でどういった力を持っているのかなどまで、言う前からすでに調べていた。

 本日の授業が終わり、茶器と焼き菓子が運ばれてきた。

 「漢字」の「へん」と「つくり」の役割について知ったばかりのセリスティンが興奮のあまりわめき、ジルフィスが甘ったるいようなまなざしで戸籍上の妹を見守る中、

「期待以上だな」

 ゼファードは、婚約者候補らに関する質問にすらすらと答えてのけたアーラを感心して見つめ、つぶやいた。お茶会のお馴染みの面々のために木の実とシナモンのパイを切り分けていた彼女は顔を上げた。

「当たり前のことをしただけよ。いつかは調べなければいけないものでしょう? 覚えるべきことはいくらでもあるんだから、できることからやっておかないと苦しいのは自分だもの」

 ここまで真剣に取り組んでくれるとは、正直ゼファードも考えてはいなかったのだ。がっかりさせるなと声をかけはしたものの、彼女の実力はゼファードの評価をさらに上回るものだったらしい。話を聞いてくれる相談役になってくれれば充分だと思っていたのだが、しかるべき教育役がついたなら、彼女は実に有能な宮廷人になるのかもしれなかった。

「世間には、言われたことすらきちんとやれない者が少なからずいるんだ」

「それは僕に対する皮肉かい?」

 恍惚と独りの世界に浸っていたセリスティンがたちまち現実に返って睨んだが、ゼファードはまともにはとりあわなかった。もともとセリスティンを想定して言ったわけではないし、それを自分への皮肉と受け取ったのであれば彼自身に後ろめたさが一さじほどでもあったらしいというのは意外な発見だった。学者や研究者といった種類の生き物は概して自分勝手で、おのれの興味の外側の物事をいっさい重要視しないものなのだ。そんなことは皮肉もあてこすりも言うのが馬鹿らしくなるほどにわかりきっている。

「少しでも心当たりがあるなら、やるべきことは監査官の目をすり抜けられる程度にはやっておくんだな」

「コルディアに伝えるよ」

「自分でやれよ」

 すかさず返すと、それを聞いていたアーラがジルフィスと顔を見合わせてくすくすと笑った。たちまち、ゼファードの胸郭の底がひやりと冷えた。

 一時ジルフィスとアーラの間にぎくしゃくとした空気が流れたことがあったが、それはまさにわずかのことで、気づいてみればジルフィスはこれまでどおりアーラを何かとかまいたがり、彼女はそれを適当にうまくあしらうのだった。一見、二人は仲のよい兄妹らしく映る。しかしジルフィスの気持ちを聞かされているゼファードには、ジルフィスから好意がとめどなくアーラに降り注ぐようすが目に見えるようで、落ち着かない気分になるのだった。

「アーラ」

 名前を呼ぶと彼女は向きなおって、「なあに?」と目で問うた。ゼファードは短く息を吸い込んで、視界からジルフィスを締め出した。

「アーラなら、きっとすぐに俺の片腕になる。頼りにするから心してくれ」

 年下にそのようなことを言われて――その外貌からはかるかぎり今でも信じられないが、アーラは三つも年長なのだ――彼女が機嫌を損ねるのではとゼファードは一瞬危惧したが、それは杞憂だった。

 アーラは照れたように微笑むと、小さく、けれどしっかりとうなずいた。嬉しげに赤みがさした頬に、わずかにすくめられた首に、彼の胸の内側はざわめいた。

 不快ではなく、むしろ手放すのが惜しいそのざわめきだ。それをひっそり抱えたまま、彼は執務にもどった。

 執務机に山と詰まれた書類を黙々と処理しながら、ゼファードは考えた。これだけの公務をさばきつつ彼女に仕事を教えるのでは、彼女が吸収する速度に追いつかないかもしれない。事務の専門家を彼女の教育役としてはどうだろう? 

――アーラに教育役兼補佐官をつけるか。

 尚書局に、少なくとも一人は信用に足る尚書官がいるのだから。

――候補の公表がすんだら、呼び出して話をしてみるか。

 一日の公務がすみ、寝台に入ってからも彼はその計画について考えた。

――アーラの戸籍をひそかに用意した者ならば、きっと心強い教育役となるだろう。女の尚書官だから、心配も要らない。

 心配。……何の? 

 枕もとのランプを消さぬまま、いつの間にか眠っていたらしい。

 仄暗い中、ふわりと、甘く誘うような香りがする。

 さらさらと衣擦れの音が近づいて、寝台がわずかに軋みをあげた。

 夢か現かわからないまどろみの中で、ゼファードは足元に人の気配を感じた。殺気も悪意もない。ただシーツにひかえめな皺が寄り、それは優美な夜の獣のようにひそやかにやってくる。

 ゼファードは、ぼんやりとその存在を眺めた。なめらかな肩から、さらりと黒髪が流れ落ちる。唇が蠱惑的な弧をえがき、夜着の襟元からちらちらと白い胸が垣間見えた。招くようにさしのべられた手に、こくりと喉が鳴った。

――アーラ? 

 まさかとは思った。しかしゼファードはまっすぐな黒髪の女性をほかに知らなかったし、従僕や見張りの者が私室に見知らぬ女を通すとも思えない。それを言うならばアーラがこのような夜更けにたずねてくることもおかしいが、目覚めきっていない脳はそこまで突き詰めることをしなかった。

 腕を伸ばして彼女の手に触れると、彼女が体を寄せてきた。すべすべとした髪がゼファードの頬をなでる。髪が甘く、とろかすように香る。

 髪の香りに包まれそっと指を握られたとき、彼の意識は一瞬にして覚醒し、緊張のために張り詰めた。

――これはアーラでは、ない。

 アーラの髪からはこんな香りなどしない。煽るように香るなど。

――それに、アーラの手は爪が小さくて、少しかさついているはずだ。香油を塗れと言われても、そうしては手がべたついて紙もペンも触れられないから嫌だと言って。

 刹那、ゼファードは女の手を掴み返すと引き倒して、枕の下から抜き出した短剣を、その細いうなじに突きつけた。

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