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38、王子殿下の従妹と従兄

 もちろん、アーラはなぜ自分の名が載っているのかをゼファードに問うた。しかし彼は、王子の従姉妹である姫君が王妃候補に挙がらないほうが不自然であるとの旨をのたまった。

 アーラはこめかみを押さえた。たしかに、従兄妹同士や叔父姪の婚姻は、多くの物語に登場する。史実でも、古代貴いとされる血筋では血は濃いほうがよいといわれ、異母兄妹の婚姻だってありえたのだ。近親者で適当な年齢の者ならば、婚約者候補に入れられるのは致し方ない。

 彼の言うことはもっともで、アーラも納得せざるを得なかった。

――まあ、名前を貸したと思えばいいのよね。これも事務的な手続きのひとつよ。

 こだわっても仕様のないことを考え続けても無意味なので頭を切り替える。

「この中からさらに候補を絞るのでしょう? 私は、いつまでに何を最低限しておけばいい?」

 リストの名前の一つ一つを覚えこみながらたずねると、ゼファードがふっと笑った。

「……楽しそうだな」

 アーラには意外だった。

「楽しくはないと思うわ、こういう地道で間違いを最小限に抑えなければいけない仕事というのは。やりがいはあるでしょうけれど」

「でも、アーラの目が違う」

 彼女は肩をすくめて、

「仕事を任されると、多かれ少なかれやる気が起きるものよ」

「授業だって立派な仕事だろう?」

「たしかにそうだけど、やっぱりそれとこれとは少し違うのよ」

 日本語の授業は、意思とは関係なしに引き受けざるを得なかった。けれど今回は、アーラから「仕事をさせてほしい」と望んだのだ。

 加えて、ゼファードから期待の言葉をかけられたことが、思いのほか嬉しかったのもまた事実だった。

――けれどこれを知ったら、ジルがいい顔をしないでしょうね。

 ジルフィスとの間に横たわる微妙な空気が嫌でも思い出され、彼女は大きくため息をついた。


 その夜。アーラはグラントリー邸で与えられた私室に閉じこもって、猛烈にグランヴィールの文字の勉強をはじめた。

 もちろん〝こちら〟に転がり出てからの一年間というもの、それなりに学ぼうとしてはみた。けれども「どうせ〝あちら〟へ帰るのだから」という思いのためにこれまでは身が入っていなかったのもまた事実だった。

 それに、ひとたび〝こちら〟の世界に何不自由なく溶け込んでしまえば、〝あちら〟と己の繋がりが希薄になってしまうような気がしていた。〝あちら〟の言葉に、文字に、物語に固執することで――〝こちら〟になじみきらずにいることで、帰りやすくなるのではと無意識のうちに願っていたに違いない。

 だが一年、春の芽吹き亭にて何も変わることなく時間は経った。

 そしてごく最近、轟音を立てるようにしてアーラの周囲は様変わりした。それも帰る手がかりが見つかったのではなくその真逆、〝こちら〟での戸籍と確固たる身分まで手に入れてしまったという変化だ。

 その上みずから望んで仕事を得たのだから、「気がする」だけでグランヴィールの文字を敬遠していいはずがない。アーラは春の芽吹き亭から運び込んだばかりの、一年間書き溜めたグランヴィール語のメモのたぐいを引っ張り出した。

 実際に気合を入れて始めてみれば、そう難しくはないことがわかった。読めずとも、一年余りの間に毎日目にしてきた言葉たちなのだ。ふつう、新たに文字を覚えるとなれば身構えてしまいがちなものだが、日本語を教える過程で意識せずとも両方の言語に触れていたことで心理的な壁さえ低くなっていたようだった。

 満足に書けるようになるまでには時間を要するだろう。しかし意味を拾って読む程度になら、そんなにはかからないとアーラは踏んだ。

 試験に追い立てられ机に向かうよう強いられるのは甚だ不愉快だが、学ぶこと自体は嫌いではない。興味さえ湧けば短期間でのめりこむようにして吸収できるのをアーラは自分で知っていた。膨大なギリシャ神話や百話近い日本昔話を読み通せたのはその性質ゆえなのだから。おかげで学生時代、歴史や古典の成績はすこぶる良かった。

「ファットン家のカスティア嬢、ペレーズ卿の末娘エレーヌ嬢。ええとそれから」

 ゼファードから借りたまるで箱のような分厚さの「王族・貴族並びに一等の税を納めし名家の記録」――通称、名家録と呼ばれているらしい――を繰りながら、婚約者候補一覧にある令嬢の名とその家の規模など今わかるだけのことを、小さい帳面に日本語で書きとめる。まるで図書館で調べものをしているような気分で、少し可笑しかった。

 独りでくすりと笑ったそのとき、ひかえめなノックの音がした。時計を見るともう真夜中をすぎている。いくら女中がアーラの夜更かしを知ったとしても、お茶を持ってくるには遅すぎる時間だ。

「はい?」

 いぶかしく思いながらふりむいて応えると、返事の代わりにゆっくりとドアが開いた。

 入ってきたのは、女中ではなかった。

「ジル」

 夜着にガウンを羽織っているアーラに対し、ジルフィスはまだ上着を脱いだだけで、ほとんど筆頭騎士のなりのままだった。今帰ってきたばかりなのかもしれない。

 彼がドアを完全に閉めてはしまわずに足元の置物を噛ませたのを見て、少し安堵した。早速どこかで家令の話を耳にしたのだろうか。それとも、何とも言い難く張り詰めた二人の間の空気の正常化を図ろうとして、来たのだろうか。

――どちらにしても、こんな時間に? 

 アーラはジルフィスの何かを決め込んだ、決然とした口元を見て不安を覚えた。微妙になってしまった関係の修復を図るだけにしてはどこか切羽詰ったものがある。「王子殿下の家令なんぞという厄介な仕事はやめるべきだ」と諭されるのだろうか。

 彼はアーラのすぐ目の前まで歩み寄ったかと思うと、そのまま跪いた。アーラは面食らって息を呑んだ。

「許してほしいんだ。俺が浅はかで馬鹿で、アーラの気持ちを考えなさすぎた。本当に悪かったと思ってる。でもあれは本当の気持ちで、物のはずみとかその場かぎりの気まぐれなんかじゃない」

 まくし立てるように言われ、アーラは彼を呆然と見つめることしかできなかった。

「兄妹なんてくそくらえだ。俺たちは血がつながってなんかないし俺はアーラが好きだし浮気も花街遊びも金輪際ないと誓える。もちろん、すぐに応えてくれなんて言わない。今はただ赦してもらえればそれでいい」

「ちょ、ちょっと待ってジル」

 跪いたままのジルフィスに夜着のたっぷりした裾の端をつかまれているので、アーラは立ち上がることもできなかった。

 もちろん、こんなにもまっすぐに好意を告げられたのは初めてだ。ジルフィスが両親が用意してくれたお見合いの相手であったならきっとすんなりと何ごとも進んだだろうのにと、アーラは無意味なことを考えた。けれども現実には彼はジルフィス・グラントリーであり、見合い相手ではない。

「あなたが勘違いしているようなら言わせてもらうけれど、多くの神話で語られる原初の婚姻が兄妹姉弟か母子なのを理屈として当然のことと受け入れられる私は、兄妹の恋愛を非難する主義ではないわ。もっとも私たちは血がつながっていないんだからそれが障害というのでもないの」

「だったら」

 こちらを見上げた彼のまなざしに気圧される。目をそらさぬようおのれを奮い立たせて、アーラは続けた。

「馬車の中でも言ったでしょう。私はジルのこと好きよ。でもそれは恋人たちがささやく好きとは違うし、そんな私の気持ちがこれからどういうふうに変るのかなんて不確かなことは私にだってわからない」

 倫理観や道徳観といった点では障害とは思わないが、世間の目や敵の目には醜聞に映るだろう。心底お互いを求めているなら周囲にかまわず双子のジークムントとジークリンデのように手に手を取り合えばよいが、アーラはそうではないのだ。少なくとも今のところは。

「……あのときのことは、もう怒ってないから大丈夫。だから気に病まないで」

 もっと気が利いていて、相手を傷つけず、それでいて相手にこちらの意図が通じる台詞があるならばぜひそれを引用したかったが、アーラにはこれが精一杯だった。どこかしら独善的で余計にジルフィスを傷つけはしまいかと悩んだが、告白され慣れているわけでも袖にし慣れているわけでもない彼女には答えなどわからなかった。

 ジルフィスは何かを言いかけて、思い直したらしく口を閉じた。そしてしばらく逡巡した後、こう問うた。

「抱きしめても?」

 アーラもたっぷり二十秒近く逡巡して、最終的にはうなずいた。椅子から落ちるようにすとんとすべりおりたアーラを、ジルフィスは息をつめて抱きしめた。激しくも苦しくもない、守るような抱擁。毛布のようだとアーラは思った。

 その後アーラが家令の仕事を引き受けたことを報告しても、ジルフィスは眉間にわずかに皺を寄せただけで何も言わなかった。

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