番外編、猫とシンデレラ
謹んで初春のご挨拶申し上げます。皆様に感謝をこめての番外編です。
本編の時系列とは異なります。時期的には本編のだいぶ後です。
ご了承くださいました上でお楽しみいただければ幸いです。
グランヴィールで新年を初めて迎えたときには、アーラはたいそう面食らったものだった。今ではもう心構えができているので反り返るほど仰天することはないものの、それでも日本の愛すべきお正月に慣れ親しんだ身にしてみれば、この時期に城で行われる無駄にきらびやかで騒がしく公害ともいえそうな行事の数々には辟易してしまうのだった。
寿命が一年縮むかと思われるほどの新年の宴を控えて、アーラはグラントリー邸の書庫に閉じこもっていた。今頃は、使者や女中たちがアーラの名を呼びながら、あちこちを駆けずり回っていることだろう。
――宴で礼を失しない程度に微笑んでいるだけだってげっそりするのに、こんな早い時間から準備に追い立てられるだなんて、まったくごめんこうむるわ。寿命がいくらあっても足りやしない。
肌磨きに髪の手入れに爪磨きに香油のパックにバラのパウダー。布の洪水のようなドレス合わせに、そのドレスに相応しい肌着選び。鼻がおかしくなるほどの調香にくしゃみが出そうなほどのおしろい……考えるだけで頭が痛くなる。アーラは書棚にもたれかかってため息をついた。
――どこぞの美男子の気を引きたいわけじゃないんだから、もとの顔かたちがわからないほど飾り立てる必要なんてないのに。身だしなみで充分よ。
「それなりの品位を見せかける身だしなみ」に要する時間を逆算すると、まだしばらくは静かな時間をすごすことができる。アーラは絨毯に腰を下ろし、革張りの背表紙にぼんやりと目をやった、そのとき。
ノックもなしに書庫の戸が開いた。
――! 鍵、かけたはずなのに。
反射的に振り向いたアーラの目は、蜜色のまなざしとぶつかった。
揺れる狐色の髪、端整な面立ちにふっと広がる安堵の表情。
「やっぱり、ここだった」
「ジル」
ジルフィスが後ろ手にドアを閉め、もとどおりに鍵をかけた。少し首をかしげながらこちらに歩み寄る彼をアーラは呆然と見返して、口にすべき言葉が見つからなかった。
「どうしてここにいるのがわかったかって、訊きたい? そりゃあ、アーラが一人きりになりたいと願って選びそうな場所で、なおかつ鍵を持っているところなんて、かぎられているからさ」
「でも、今までは見つからなかったわ」
「女中じゃわからないだろ。俺だから、アーラのことがわかるってわけ」
アーラは唇を噛んだ。力ずくで連れ戻されるならば、抵抗は無駄だ。しかしおとなしくドレスと化粧品の洪水の中へもどるのも癪で、恨みがましくジルフィスをにらんだ。
「私を引きずっていくの?」
「いいや、そんな野暮はおことわりだね。せっかく二人っきりだっていうのに」
ジルフィスはアーラのとなりに座ると、手を伸ばして肩を抱き寄せた。
新春――真冬とはいえ、グラントリーの屋敷は空調が行き届いていて暖かい。この書庫のように暖炉がない部屋や廊下でも、床や壁の中を暖気がめぐる構造になっているので、屋敷の住人は薄着ですませている。外の気候をまったく無視した室内ドレスの広くとられた襟ぐりは、ジルフィスの興味を充分に引いたようだった。
項にそっと唇が寄せられる。首筋をくすぐるやわらかな感触に、アーラは身じろぎした。
「兄さん」
「兄さんじゃなくて、ジル」
警告の意味で呼んだのに、暖簾に腕押しだった。
「じゃあジル、くすぐったいからやめてくれる?」
ジルフィスは答えずに、逃げようとするアーラを後ろからとらえた。そのまま背に流された長い黒髪に顔を埋める。両腕でしっかり拘束されていると知って彼女はため息をつき、脱出をあきらめた。
――そのうち気がすむでしょう。
抵抗すればするだけジルフィスは面白がるにちがいない。実際何度も試して失敗した前例がある上、最悪でも、彼にはアーラが最低限の身づくろいをするのに必要な時間がせまる頃になればやめるだけの良識はあるはずだった。
「アーラは、ずっとここにいればいいよ」
未練がましい口調でジルフィスは言った。まるで里親の決まった仔猫を手放したがらない男の子のようだと思って、思わずアーラは笑った。
――たしかに私はジルにとって、拾ってきた猫みたいなものなのかもしれない。
かわいがり、甘えさせ、勝手なことをすると怒り、自分だけになついてほしいようなことを言い、自分が温まりたいときに有無を言わさず抱きしめる。そして手元にいなくなると寂しがる。
けれど一時保護しただけの仔猫と一緒で、きっと必要不可欠な存在ではないのだと、アーラは考えた。
アーラとて、ジルフィスのことは好きだ。とはいえその気持ちは仔猫が庇護してくれた人間を慕うのと似た種類のもので、抱きしめられるのも撫でられるのも甘受しながら、恩を感じながら、それでも対等な位置では思いを交わせないものだろう。
「アーラ」
「いい加減気がすんだ?」
「ううん全然」
「……そう」
「アーラ」
「なに?」
「好きだよ」
「うん、知ってる」
「ずっと、俺のところにいればいい」
アーラはジルフィスの方を振り返らずに、目を伏せた。
すぐ手が届くところに、自分の背中のすぐうしろに両腕で抱きしめてくれる優しい存在がいるというのに、甘えきってしまっていい相手ではないとおのれを律するのは、甘やかでそしてほんの少し苦い。
ジルフィスは、アーラが本気で嫌悪する行動には及ばないだろう。その良識と彼が失うべきものとおのれの価値を天秤に乗せて危うい釣り合いがとれていると信じているからこそ、アーラは血のつながらないこの兄を、どちらが甘えているのか曖昧なこのような触れ合いを、未だ突き放さずにいる。
蜂蜜のような、洋酒を混ぜすぎたシロップのような、そんなとろりとした時間は刻々と過ぎてゆき、もうすぐ、シンデレラの鐘が鳴る。




