37、王子殿下の家令
「私に仕事をさせてほしいの。給金のいただける仕事を」
ゼファードはカップを置いて、まじまじとアーラを見つめた。そこまで見つめられると、彼の群青色の虹彩の筋までが、アーラにも見分けられるほどだった。
「王弟の姫君であるアーラ・グラントリーが労働を? 冗談だろう」
やっと、彼は言った。
「宿屋にいた頃のように皿洗いがしたいというのか」
もちろんアーラも二つ返事で承諾してもらえるとは思っていなかったので、へこたれはしなかった。
「私、洗い物は好きなの。皿を洗ってお給金をもらえるなら、喜んで厨房に行くわ。でも、そういった労働は令嬢にふさわしくないというのも理解できるの。私はあなたたちの立場を難しくするようなことを無理にさせろと言っているわけではないし、私が今の立場でしても問題ない仕事をあたえてほしいと頼んでいるのよ」
「グラントリー王弟閣下の私有財産はかなりのものだ。ほしいものがあるなら、叔父上に頼んでみればいいだろう。気が引けるのならジルでもいい。筆頭騎士の俸禄だって相当だ。あいつは、きっと喜んでおまえにドレスやに髪飾りやら靴やら買い与えるぞ」
「私がドレスや宝石つきの髪飾りをほしいから働きたいと言ってるって、本気で思っているの?」
「……いや。違うだろうな」
ゼファードは眉間に皺を寄せながらため息をついた。
「いったい目的は何だ?」
「気兼ねなく、心置きなく自分のために使えるお金がほしいのよ」
嘘ではない。詳しく言えば「帰り方を見つけるためにほうぼうで手を尽くす資金がほしい」のだが、そこまで正直に打ち明けられはしないのだから。
だがやはり、ゼファードにしてみれば納得しかねるようだった。
「令嬢が自分の家の財産を使うのは当たり前のことだし、それで気が咎めるなら農場のひとつでも分与してもらって経営すればいいだろう。アーラが汗水たらして働く必要なんてどこにもない。むしろ、不自然だ」
「気兼ねするんだからしかたないじゃない。だから汗水たらさない仕事を紹介してくれればいいでしょう? 経理の経験はあるわ。それに春の芽吹き亭でお勘定を教わったから、グランヴィールの文字でも数字ならあつかえるし。どう?」
ゼファードは腕組みをし、宙に視線をさまよわせた。
「経理、か。……そうだな」
「心当たりがあるの?」
濃い藍の瞳をひたとアーラに留めて、ゼファードは引き締めていた唇の端をわずかに緩めた。
「いい条件のものがひとつある。王侯貴族に連なるものがその肩書きを持っていても不自然ではなく、なおかつ俺の目がきちんと届く仕事だ。そしてもちろん給金もいい」
期待をこめてアーラが見返すと、ゼファードはおのれの思いつきに満足しているのか、いつになく楽しげだった。
「私は何をすればいいの?」
「俺の家令だ」
「家令?」
アーラの頭に浮かんだのは英国貴族が抱える男性使用人筆頭のハウススチュワードだったが、ゼファードの話を聞くと、それとは少し異なるようだった。
グランヴィールにおける家令は、もちろん屋敷をとりしきる家付きの存在であることが多いが、一人の主人に付き従ってその個人財産の管理をしたり相談役を務める者も少なくないという。手紙の代筆もすれば主人の代わりに出て行って交渉もする。身分が隔てられた使用人ではなく、むしろ権威のある個人秘書、と言われたほうがしっくりするかもしれないとアーラは思った。ちなみに現王の懐事情を管理する家令は、さる大貴族の出なのだという。
「腹違いの弟が次期当主である兄の家令を務めるなんてことは、めずらしくはない。親類が出来のいい息子を本家や主家の人間に家令として差し出すこともある。もちろん、女きょうだいや従姉妹が家令となる例はめずらしいだろうが」
それでも、そういった例がないわけではないと彼は言った。
しかしそうであったとしても、アーラにしてみればそれ以前の問題なのだった。
「家令は宮廷に精通している人間がなるべきなんじゃないの? それに、今までゼファの家令をしていた人はどうなるの?」
「俺は今、家令を置いていないんだ。前に使っていた奴が末弟派と通じて情報と金を流していることがわかってから、人間不信でな。領地の運営や財産管理はできるだけ自分でやっている」
「万が一私がゼファの家令になったとして、そのいっさいを素人の私に任せるつもりじゃないでしょうね?」
「おまえは仕事がほしいんだろう? その身分や境遇に不都合のない仕事が。素人だって素地がよくてそれなりに打ち込んだならいつかは使える人間になる。アーラはいい素地で打ち込める才能もあると見込んだから、俺は家令にならないかと持ちかけたんだ」
真顔で告げられて、アーラは言い返すべき言葉を見失った。
「おまえならやれるだろう? 見込み違いだと、がっかりさせるな」
耳の奥で、ざあっと血流の音がする。心臓が、胸郭をすさまじい強さでたたいた。
呆然とゼファードを見ると、彼は取り澄ました顔で席を立った。
人からこんなにも直截な、期待をこめた言葉をかけられたのは何年ぶりだろう? 子どもの頃は何かイベントがあるごとに担任の先生から大役をおおせつかったものだが、大人の世間では、平凡の皮をかぶっているほうが平和に過ごせることが多い。アーラはいくつかの挫折を味わい、結局小さな世界でつつましやかに過ごす日々を選んで一応の満足を得ていたけれど、それでも心の奥では誰かに期待されたり、見込まれたり、期待以上の働きをしたことを賞賛されたりしたいとの想いが常にくすぶっているのだった。そんな彼女の想いに気づいていたのは、おそらく弟の長屋だけだろう。アーラは誰の迷惑にもならないように、目立ちすぎないように、穏やかに生きてきたのだから。
それでもゼファードの言葉のせいで、長らく眠っていた熾き火がめらめらと燃え出したのだ。そして負けず嫌いの性分が、その油となった。
――家令、か。
受けて立つとはっきり口にしたわけではないのに、ゼファードは彼女が引き受けたと決め込んでいるようだった。口に出してはいないが、答えが顔に出ているのかもしれない。ゼファードはとなりの部屋から巻紙のようなものを持ってきて、アーラによこした。
「家令の仕事のやり方はおいおい教えていく。おまえならすぐに飲み込めるだろう。これは、先日の夜会で決まった婚約者候補のリストだ。これからはじまる雑事のためにまずは頭に叩き込んでおけ」
それはたしかに人名の一覧だった。人の名前程度なら、グランヴィールの文字に精通しないアーラでも読める。一番上から順に目でたどり、最後の名前の上に視線を合わせたところで絶句した。
アーラ・グラントリー。婚約者候補リストに、アーラの名前が載っているのだった。




