36、二人だけのお茶会
夜会が終わり、春の芽吹き亭から荷物を引き上げることもすんだので、アーラの授業は再開された。
セリスティンは漢字というものをいたく気に入ったようだった。
「そう、これだよ! やたら直線と曲線を書き込まなくちゃならないのに、これでたった一字だなんて非効率にもほどがある。文字というよりもはや芸術じゃないか!」
日、月、星、朝、昼、夕、夜、陰、陽。アーラが試しに教えてみた漢字と意味をあっという間に完璧に覚え、彼女を驚かせた。もちろん、習字の基礎を知るよしもなく書かれた漢字はどことなくいびつではあったけれど。
「特に〝陽〟という字がいいね。このごちゃごちゃしたのが、日の光という意味? あとは明るいとかあたたかいとか、そんな意味もあるだって? たった一文字にそれだけの意味を見出すっていうのは、なんだかさすらい人の絵札占いみたいだ。一枚の絵札から過去や未来を読み解くっていう、あれさ」
セリスティンの驚異的な記憶力にはかなわないものの、ゼファード王子にも習得の進歩が認められた。ジルフィスはといえば、今日は何やら尚書局に用事があるとかで姿を見せていない。彼が授業を欠席するのは、はじめてのことだった。
――やっぱり、〝あのこと〟があったからよね。
アーラは小さくため息をついた。春の芽吹き亭からの帰り道、馬車の中でのできごとを思い出すと気が重くなる。
まさか、あのような形でファーストキスが奪われるとは思ってもみなかったのだ。両親も認める相手とお見合いでもして、結婚に至る過程の中でおそらく生じるのだろうと、漠然と想像していたものなのに。
アーラ自身はジルフィスに至極まともなことを言っただけで間違った振る舞いはしていないと自負している。だが、だからといってこの宙に浮いたような居心地の悪さを割り切ってしまうのも難しかった。
しかもこれは相手があることだから、アーラ一人でどうにかなるものでもない。時間が解決してくれるだろうと楽観的になる努力をすることにして、アーラは手元の帳面を閉じた。
「今日はここまでにしましょう。明日、セリスが気に入りそうなもっと芸術的な漢字を教えてあげる。……さて、お茶を入れてくるわね」
「アーラ、僕の分はいらないよ。コルディアと約束があって、早くもどらなくちゃいけないんだ。君たちだけで午後のお茶を楽しんでくれたまえ!」
セリスティンは美しい銀の髪をひるがえして、軽やかな足取りで執務室を出て行った。すばやいことだ。
――コルディアさんと、デートなのかもしれない。
アーラはセリスティンを見送ると給湯室におもむき、白磁のポットとカップ、そして焼き菓子を準備した。つい癖で普段どおりに四人分用意しかけたところで今日は二人欠席なのだと思い出し、アーラは苦笑した。
――私と殿下だけだったわね。ずいぶん静かなお茶会になりそう。
ジルフィスのいないお茶会は、考えてみれば今日のアーラにとって好都合だった。
ゼファードに、頼もうと思っていることがあるのだ。何を頼もうとしているかジルフィスが知ったら猛反対されるような気がしていたから、彼が欠席しているこの隙に、ゼファードに相談してしまうのがいいだろう。
トレイを捧げ持ち、給湯室を出る。途中で、顔なじみの女官とすれ違った。廊下に置かれている花瓶に飾るらしい生花をたっぷり抱えていたが、きっとそれは方便で、ゼファードに命じられて見張りをするのだろう。今日はジルフィスもセリスティンもいないのだから。
アーラが執務室にもどると、ゼファードは教材の紙束と顔をつき合わせていた。復習をしているらしい。カップと焼き菓子を差し出してアーラが席についても、彼は顔を上げなかった。
「殿下、あの」
返事さえない。
「殿下?」
無言のままだが、アーラがもどってきたのをわかっていてわざと聞こえないふりをしているのだと、彼女は察した。
「ゼファード王子殿下」
彼の機嫌が悪いわけではない。アーラは小さく息をついて、短く呼んだ。
「ゼファ」
「呼べるんじゃないか」
唇の端で笑って、ゼファードは紙束を脇に置いた。試合の勝者のような満足げな光が群青の目にちらりと浮かぶ。
――こんなにこだわるだなんて。
彼に思いのほかかわいらしい一面――否、年相応な一面があると知って、アーラは苦笑した。彼女にはひとつ違いの弟がいるが、ゼファードがその弟よりも年下であることを、つい忘れてしまうのだ。
「何が可笑しい?」
ゼファードはけげんそうな面持ちになった。
「いえ、ちょっと弟のことを思い出していたの」
「弟がいるのか」
アーラはうなずいて、目を細めた。年子の弟と、ひとまわり近くも年の離れた妹。当然のように毎日をともに過ごし、それゆえときに疎ましく思うことさえあった弟妹が、とても懐かしい。
「俺には兄弟がいないからわからないな。どんな弟だ?」
「弟のくせに、私の世話を焼きたがる変わった子よ。姉さんに変な虫がつかないように見張るとか、真顔でいうの。可笑しいでしょう? 私なんかより、蝶々にたかられてる自分を心配しなさいっていうのに。一歳違うだけだから、今年もう二十五になっているはずね」
「……二十五?」
ゼファードがあろうかことか、ぽかんと口を開けた。やがて操り人形のようにぱくんと閉じて、座りなおす。
「弟が二十五? 兄ではなく?」
「〝兄さん〟のジルは二十七でしょう? 私が二十六歳で、弟が二十五」
「二十六? アーラが?」
「言ってなかった?」
力をこめてうなずくゼファードを見返す。年齢を打ち分けたのはたしかにジルフィスだけだったかもしれないと、アーラは思い返した。
「二十歳ぐらいだと思っていたんだ……」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」
「いや、だから世辞などではなく、本気で」
年上だと知れてゼファードがショックを受けたなら、それは申し訳ないことだとアーラは思った。もちろんアーラ自身に罪はないが、戸籍を二十歳という設定にしてしまう以前に打ち明けるべきだったかもしれない。
「ごめんなさいね、実は大年増で」
「ちがう、べつに、そんなでは」
実年齢で驚かれてあれこれ解説をするなど、ジルフィスのときの一度きりで充分だ。アーラはうんざりする前に、早々に話題を変えることにした。
「そんなことより、ゼファ。お願いがあるの。きいてくれる?」
こちらが本題なのだ。
「お願い、だと?」
ゼファードはなんとか立ち直ったようすで、ティーカップに口をつけた。むせずに飲み下せているから、もう大丈夫だろう。
アーラは言った。
「ええ、お願い。私に仕事をさせてほしいの。給金のいただける仕事を」